"【文房具を語る】"カテゴリーの記事一覧
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1980年代のさまざまな文房具を懐かしんだり哀れんだりする私的エッセイ。
この回から(編集担当者の依頼により)イラストが2枚に! 原稿料は変わらず苦労が二倍!
初出:2017年10月20日
誰が言い出したのか知らないが、「コピー機を持ち歩きたい」というニーズが発生していた。
最初に普及したジアゾ式(青焼き複写)コピー機は手軽に使用できるものではなかったが、その後PPC式(現在よく見る白焼き複写)がオフィスに普及し、その後大学周辺などで「1枚10円コピー」が可能になった80年代から、コピー機の便利さが一般にも理解されるようになっていく。
それでも、コピー機は店頭かオフィスにしかない。
1980年代なかば──家庭にようやくワープロが入り始めていたが、ワープロのオプションスキャナは高額であるにも関わらずコピー機の代わりになるような代物ではなかった。
しかもワープロのプリンタでは高解像度の出力は難しく、そのたびにインクリボン(専用の熱転写用紙に印字するために必要な、カセット状になったインクフィルム。たいへん高価な消耗品)は消耗するし、価格を抑えようとすると感熱紙(熱を加えると変色する薬剤が塗布された専用の用紙で、長期の保存には向かない)を使用するしかなく、感熱紙の長期保存のために結局はコピーを取らざるを得ないというジレンマも抱えていた。
キヤノンがポータブル複写機「ファミリーコピア」を発売したのが1986(昭和61)年。ワープロのように全家庭に普及したわけではないが、キヤノンは「パーソナルでコピー機が欲しい」というニーズを、「じゃあトナーカートリッジ内蔵で家庭内持ち運びを前提とした縦置き可能なフラットベッド機を作りましょう」と受け止めた。
では、コピー機メーカーのもうひとつの勇、富士ゼロックスはその声にどう応えたのか。
1988(昭和63)年、ハンディ転写マシン「写楽」が登場する。
大型から小型へ。
デスクトップからラップトップへ。
部屋と部屋を移動できる大きさではなく、鞄に入れて外出できる大きさへ。
日本の電子機器は、この時期みな小型化されていく。
小型化された電子機器は、パーソナルユースに近づくと「電子文具」という名を与えられ、家電量販店ではなく文房具店の店頭に並べられた。
写楽もそういう立ち位置にいるマシンだ。
ただ、写楽は電子文具と聞いて想像するものとは趣を異にする体積と重量を有している。電子文具界のスーパーヘヴィーウエイトだ。
鞄に入れて持ち歩くものではない。できないわけではないけど。
インクリボンカセットを含まず、本体の重量は910グラム。
これに外づけバッテリーユニットが必要になる。プラス380グラム。
いまインクリボンユニットの重量を量ったら、29グラムあった。
合計で1,319グラム。1.3キロオーバーである。MacBookProと遜色ない重量である。
これを外出時に持ち歩きたいと思ったことは、一度たりともない。
外づけバッテリーユニットは充電に8時間かかる。
充電完了後、電源を入れる。スキャンしたい紙を机の上に置く。
スキャンできる幅は104ミリメートル、長さは最大216ミリメートル。幅はおそらく葉書をもとにしていると思うのだが、そんな細長い変な形の紙はそうそうない。もっともわたしの使用方法は、バイブルサイズのリフィルに何らかの情報を転写することだったから、このサイズでも不満はなかったのだが。
ユニットをわしっと掴み、転写したい用紙の上をゆっくり、ゆっくり動かす。
その行為は、アイロン掛けそのものだ。しかもアイロンと異なり、安定感がない。細心の注意を払って、皺を伸ばすかのように慎重に慎重にスキャンしていく。
赤いランプがついたら、それは失敗の合図である。やりなおし。
緊張のスキャンが終わったら、写楽の下半分をがしゃりと持ち上げる。するとスキャンユニットがバンパーのように跳ね上げられ、本体下部の熱転写ユニットが露わになる。
ここからまた、緊張の時間だ。
写楽は自走してくれるわけではない。紙が滑らないように敷かれた専用の下敷きの上で、あくまで人が適切な速度で押してあげなければ、正しく印字ができない。
この印字がまた難しいのだ。曲がってはいけないし、早すぎても遅すぎてもいけない。これがまた何か修行のような──そう、まるで「写楽道」とでもいうべき、まったく新しいデジタル修行が発生したかのような、辛く厳しい世界なのだ。
ぶっちゃけ、写楽はコピー機の代わりにもならないし、印刷機の代わりにもならなかった。
手軽に持ち歩くことができないので、友人知人に自慢することもできない。
とにかく印字が難しかった。そのために無駄にインクリボンを消費してしまっていた。
リフィル作りもワープロによる自作が中心になり、複写してまで持ち歩きたい情報はそうそうなかったし、新聞や雑誌なら切り抜きで対処すればよかった。
もうひとつのニーズは年賀状作成だと思うが、印字が難しいし、枚数を刷ると緊張からかものすごく疲れたので早々に挫折した。
写楽を手にしたときには、きっと「電子文具によって具現化された未来」があると信じていたのだと思う。まさに未来を絵に描いたような、ハンディなコピー&ペーストマシンが登場したと喜んでいたのだ。
でも、そこにあるのは修行の道だった。
わたしは買い込んだリボンを使い切ると、わりと早々に写楽を箱に戻し、押し入れにしまい込んでしまっていた。
今はコピー機を持ち歩きたい、と思う人は皆無だろう。
デジタル機器が普及し、フィニッシュがプリントアウトでなくていい時代になったからだ。
スキャナを持ち歩かなくとも、スマホのカメラは充分な解像度を持っている。
わざわざ情報を取り込み、それをリフィルに印字してシステム手帳に綴じ込むこともなくなった。
だから写楽は徒花なのだけど、でもその時代の息吹を強く感じる存在でもある。
今でもたまに、もう動かなくなった写楽を取り出して持ち上げてみることがある。
あの時代の技術革新が詰まった、1キログラムの物言わぬ塊。
そういう時代に生きていた──と後ろを振り向くのは、罪なことだろうか。
【後日譚】
いきなりイラストが2枚になったわけですが、後に振り返ってみれば、やっぱり2枚でよかったです。記事の長さから言うと、やっぱり長文テキストにイラストが1枚ではレイアウト的にも難しいですよね。
ただ、描いているほうはけっこう大変でした。
記事は自宅でなくても、例えばMacBookAirを持ち歩いて電車内とか喫茶店とかで30分もあれば初稿を、その後少し寝かせて推敲したとしても合計1時間かからず書けるのですが。
イラストはそうはいきません。自宅の机にいてじっくりと描かねばならないので。
ケント紙に下書きし、Gペンでペン入れし、スクリーントーンを貼り、それをスキャンする……現物があったとしても、文房具を描くのはなかなか難しいものです。写実を優先しますが、もちろん絵としてのデフォルメも必要ですし。
そもそも「ブンボーグ・メモリーズ」は、「イラストでブツの説明」「記事は他故個人の使用感(当時の状況や私的な感想を含む)」という構成で、いわゆる「製品レビュー」にはしない、というコンセプトで始めた連載でした。
イラスト2枚は確かに慣れるまで苦戦しましたが、2枚になったことで「一枚目はブツのどアップ」「二枚目は機能の紹介」と役割分担ができたことで、全体的にもっとわかりやすい記事に進化していったのです。
ちなみに二枚目の泉(あの女の子の名は泉と言います)のポーズは、当時の写楽のテレビCMのパロディです。CMタレントは松下由樹。松下由樹って言うと、今じゃ「癖のあるおばさん役の役者さん」という認識でしょうけど、そもそも彼女は美人アイドル女優だったんですよ……曲も懐かしいですね。 -
1980年代の懐かしい文房具を語る極私的記事。
今回は、当時の空気を感じて欲しい話題です。
初出:2017年10月6日
空前絶後のカンペンブームが、わたしたちの間に巻き起こっていた。
有り体に言えば、親に買ってもらった鉛筆を6本差せる箱形筆入れから、自分で選んだカンペンケースへのダイナミックな乗り換えである。
時代は昭和50年代半ば、西暦で言うと1980年代初頭の話だ。
中学生になり、服は親に適当に買ってもらった服から、制服に代わった。
鞄はぼろぼろだったランドセルや親が適当に用意した手提げ袋から、ぴかぴかの学生鞄に代わった。
靴は学校指定だったが、ズックではなく紐靴に代わった。
だったら、学校で使う文房具だって、中学生らしく自分で選び、変えるべきだろう──わたしの目は通っていた中学校のすぐ脇にある文房具店に向けられていた。
親が適当に買ってきていた束ノートは、コクヨやマルマンのルーズリーフに。
謎の募金や寄付の名入れが施されていた鉛筆は、三菱やオートのシャープペンシルに。
そして筆入れもいま流行のカンペンケースに──とここまで書いて、記憶の糸を手繰り寄せていたわたしは、雷に打たれたかのようにキーボードを打つ手を止めた。
そうだ。
思い出した。
いちばん好きだったカンペンケースは、中学のとなりの文房具店で買ったものではない。
『機動戦士ガンダム』というテレビアニメーションがあった。
1979年に放送が開始されたが、視聴率の低迷と玩具の販売不振に伴い放映期間が短縮され、その後アニメファンの熱心な嘆願によって再放送が全国で行われた作品だ。
放映が終了してから一年と三ヶ月──1981年3月にガンダムは劇場版として蘇った。第1話から第14話までという全体の三分の一に満たない総集編として上映された本作品こそが、空前のガンダムブームを巻き起こす発端だった。
同年7月に第2作「哀・戦士編」、翌1982年3月に最終作「めぐりあい宇宙(そら)編」が上映され、ガンダムはファンのみならず日本じゅうに知れ渡る存在となった。
わたしは1981年と1982年の二度に渡り、ガンダムカンペンケースを購入している。その印象が強すぎて、これ以前にどんな筆入れを使っていたのか思い出すことができない。
イラストは1982年に購入した二代目だ。本当は初代のカンペンケースを描きたかったのだが、詳細が分かるのが二代目のほうだけだったので、年代だけ初代購入の1981年とさせていただいた。
初代のカンペンケースは、母親に無理を言って東京まで連れていってもらい、新宿御苑駅前にあったアニメグッズ専門店・アニメック本店で購入した。
当時、わが街にアニメックはなく、アニメックのオリジナル製品であるガンダムカンペンケースを購入できる店は他になかった。
アニメック本店でカンペンケースの他に消しゴム、定規、下敷き、ノート、あと文房具ではないがトレーナーを購入した記憶がある。絵柄はすべてガンダムのパイロットである主人公アムロ・レイだった。
二代目のカンペンケースは、劇場公開時にパンフレットといっしょに映画館で購入している。
ガンダムペンケース、実は特に機能と呼べるものはない。
鉛筆が入る細長さと鞄の隙間に滑り込むことができる薄さが、特徴と言えば特徴だろうか。
中にはスポンジの敷物が入っていて、開いた右側の縁を覆う形状になっている。これは消しゴムを左に、中央にシャープペンシルを配置した場合、そのスリーブの先端を保護するための工夫だ。
幅はペンが4〜5本入る程度で、一般的なものよりスリムだ。5本だとぎっしりで、太めのペンだと4本が限度になる。また当時50円だった小サイズの消しゴムが、メーカーによって蓋が浮いたり新品の状態だと幅方向に入らなかったりすることもあった。もしかしたら、いっしょに販売されていた消しゴム(スリーブにガンダムの登場人物が印刷された、正方形に近いサイズの少し薄い消しゴム)を基準に設計されたのかもしれない。
初代は全面がつるつるの塗装で凹んだりして傷つくとすぐ塗装が割れ剥がれてしまい、それが嫌で全塗装をヤスリ掛けしてはぎ取ってしまったが、二代目は梨地の無塗装でイラスト部分だけカラーが乗り、凹みにも強く使用中に塗装が剥がれることもなかった。
結果として、ガンダムカンペンケース(特に二代目)は優秀なペンケースだったのだ。
アニメグッズでありながらカンペンケースが300円という普及価格だったことも、中学生には重要なファクターだった。
学校で自慢した記憶もあるが、実際はガンダムを理解している一握りの友人だけが頷いてくれたのだろうと思う。カンペンケースそのものは、もちろんクラス全員が当たり前のように持っていたのだから。
自分の中でガンダムの存在が小さくなっていく高校入学までの間、ガンダムカンペンケースは常に最前線で活躍してくれた、まさしく戦友のひとりだった。
カンペンケースという製品自体は現在でも販売されているし、児童生徒の間ではペンケースの選択肢のひとつとして残っている。
現在は機能的に進化したペンケースや、素材の面白さ、また大量にペンを持ち歩いたり、逆にミニマムに大切なペンを守る細身のものがあったりと、ペンケースのバリエーションが豊富になった。故にあえてカンペンケースをチョイスするひとは少数派かもしれない。
ただ、カンペンケースにノスタルジーを感じているのは大人の勝手じゃないか、とも思う。
今も昔も、シンプルな形状と自己主張の強い絵柄、そして何より「もう子供じゃないんだから、ペンケースくらい自分の好みの絵柄のものを買う」という行為そのものが、カンペンケースの魅力だと思うから。
懐かしいと言うには、まだ早いのだ。
【後日譚】
『機動戦士ガンダム』というアニメーションは、静岡の片田舎に住む中学生を(母親同伴とはいえ)上京させるだけのパワーを持っていたのです。
ここで購入したグッズのほとんどが(トレーナーを除けば)文房具だった、というのがまたわたしらしいですね。
記事には記載がないが、上京時いっしょに買ってもらった記録全集は結局全巻揃えることができず、わたしの上京後実家にて処分されてしまったわけですが(台本全集なんか藁半紙みたいなザラ紙製でしたから、そもそも長期保存はできそうもなかったのですが)、文房具もひとつぐらい残しておけばよかったと今さらながらに思います。
「少し薄い消しゴム」なんか、今でもはっきりと思い出すことができますもん。
ただ、アニメグッズを買ったのは、後にも先にもこの中学生の時期だけでしたね。憶えているのは、このガンダムグッズと、バルディオスのシールと(実はのちほど登場します。さて、どこでしょうか?)、「DAICON IVの女の子」トートバッグぐらいでしたか。DAICON IVのころはもう高校生だったので、買ったはいいが恥ずかしくて使ってなかったものを、ある日それを父が現場(父は鳶職でした)に持って行っているのを発見してたまげた記憶があります。 -
1980年代の、わたしのお気に入りだった文房具を語る連載記事。
わたしが直液式水性ボールペンが好きになったのは、これのせいでした。
初出:2017年9月15日
ボールペンの最初の記憶は、6歳のときに遡る。わたしは、わら半紙に赤いボールペンでマジンガーZを書き殴るのが大好きな子供だった。
そこでなぜ赤いボールペンが選ばれたのかは、記憶にない。
だが、わら半紙を突き破るペン先に辟易し、ボールペンはすぐ鉛筆に変わってしまう。書かれるものも、わら半紙からノートに移行していく。
それから中学、高校に上がるまで、ボールペンが手許のメインに上がってきた試しはない。蛍光色の油性ボールペンが出たとき少しばかりクラスで流行った記憶はあるが、授業で使うわけでもなく、趣味で使うわけでもない。ローティーン他故壁氏は、ボールペンとは無縁だった。
なぜか。
油性ボールペンの書き味も、筆記線も、色も、すべてが嫌いだったからだ。
油性ボールペンの書き味は堅く、重く、今ほどなめらかではなかった。
書かれた線はか細く、ある個体はかすれ気味で、ある個体はダマが出て粘つく有様だった。
引かれた線も黒々としておらず、視認性に欠けていた。
そして何より、ボールペンで書かれた文字は、他の筆記具で書いたそれより、震えて弱々しく見えたのだ。。
水性ボールペンという筆記具があるのは知っていた。
油性ボールペンよりは「ましな」文字が書けることも。
だが、高校生あたりになってくると、ちょいと生意気な知識が入り込んでくるものだ。当時わたしは地元のラジオ番組に投稿を行うハガキ職人だったのだが、水性ボールペンで書かれた文字が雨で濡れてにじんだり読めなくなったりするのを極端に嫌っていた。
水性ボールペンというジャンルすべてに耐水性がなかったわけではない。だが、わたしが住む地域で入手できる範囲での水性ボールペンは、みな染料系インクで耐水性がなかった。
だから、嫌いで嫌いで仕方がなかった油性ボールペンでの投稿を余儀なくされていた。
字が汚く見えて、採用されないのではないかと常に恐れながらの使用だった。
そこに登場したのが、モノボールだ。
モノボールは、軸内に直接インクを蓄えた顔料系の水性ボールペンで、しかも定価で100円だった。
これは画期的な製品だった。
まず、中綿式でない、直接インクを溜め込んだスタイルのため、買ってきたばかりの新品の時期から書けなくなる使い終わりまでの間、インクの出に変化がない。1982年発売の「ロールペン」から、トンボ鉛筆は独自の直液式水性ボールペンを発売しているが、モノボールでも同様に、黒々とした濃いインクが紙面に常に出てくるのだ。
当時の油性ボールペンにありがちだった「かすれ」「ボテ」「色の薄さ」「線の頼りなさ」がない。線が太くくっきりと書かれるだけで、文字が綺麗に見えるのだ。
そして待ち望んでいた、水性でありながら水に流れない顔料系インクの搭載。耐水性至上主義者だったわたしは、一も二もなくこのペンに飛びついた。
するすると書ける筆記の軽さも、中綿式に較べ筆記距離が長いことも、すべてがわたしにとってはありがたかった。書いたハガキが何枚だったかは記憶にない。だが以降、モノボールは常にわたしのペンケースに居続けることになる。
いま日本では、水性ボールペンジャンルは衰退の一途を辿っている。
海外では未だにローラーボールの需要があり、輸出を中心に製品を開発しているメーカーはあるものの、国内での水性ボールペンは風前の灯火である。
油性ボールペンは「かすれ」「ボテ」「色の薄さ」そして「書き味の重さ」を克服し、水性ボールペンが得意としていたカラフルペンのジャンルはゲルインクボールペンが担っている。
水性ボールペンはどこに行くのか。
わたしが今でも水性ボールペンを使う唯一の理由は、「書いていて気持ちがいい」からである。
紙にインクがたっぷり染みこんでいく快感。
他の筆記具では味わえないほどに、軽やかでなめらかな筆記感。
ボディから垣間見える液体の表情。透けて輝くインク。
ものすごく細かく文字を書いたりするのは苦手かもしれない。紙によっては裏抜けを気にすることもあるかもしれない。
でも、思考に羽を生やし、紙上にそれを踊らせるために、このインクの出となめらかさがどうしても欲しい時がある。
さらに言えば、いつ何時その書き込まれた紙が突然の水分に襲われるかもしれない。その時のために、やはり耐水性も欲しい。
その快感を教えてくれたのが、モノボールだったのだ。
いまでも、昔から営んでいる文房具店を覗いてみると、他の筆記具と並んでモノボールが投げ込み什器に刺さっていることがある。さすがに21世紀の現役たちに較べれば書き味は落ちるが、それでもわたしは見つけるたびにモノボールを買ってきて手元に置くようにしている。
そして、昔と変わらぬ気持ちで、今日も紙面にインクを染みこませる。するすると動き、黒々と線を描く。そうそう、これこれ。この感じがいいんだよ。
書いてみると判る。なくなっては困るジャンルのペンだと、改めて気づかされる。水性ボールペンがもう一度流行ってくれないか、と心から思う。
【後日譚】
本当に好きだったペンで、今でも文房具店のぶっこみ什器で埃をかぶっている姿を見るたびに購入しています。なので、書けるモノボールが手許に10本以上あるという。
たまに使ってみると、どうやら弁の代わりとしていると思われる機構(おそらくボールをリフィル内部からバネで押しつけている)が錆びて書き心地がgdgdになっているものもあるのですが、それはそれで「味」だと思って使っています。
この頃から「顔料系(耐水性)至上主義者」だったので、染料系の水性ボールペンが何となく許せないという狭隘な心の持ち主のままここまできてしまった感はあります。モノボールが入手できなくなってからのわたしのメイン直液式水性ボールペンはVコーンなのですが、Vコーンは染料系で、後に発売されたVコーンC(顔料系で150円)がわりとすぐ製造終了してしまったことに落胆したりして……(ただしVコーンの黒は染料系では最強の耐水性を持っていますので嫌いではありません。むしろ書き心地の悪かったVコーンCの黒よりぜんぜんいいペンです)。
残念ながらもう日本では水性ボールペンの時代は戻ってこないと思うので、あとは各社の海外仕様製品を入手するのだけが老後の楽しみでしょうかね。 -
1980年代──日本人がみな将来に希望を持っていた時代。
そして文房具がもっとも進化した時代。
初出:2017年9月1日
ゲージパンチは1982年の発売である。発売されてから35年もの歴史がある。
用紙にパンチで穴を開け、ルーズリーフバインダーに綴じ込むための文房具である。用紙をゲージに挟み、パンチで5回穿孔するだけで、A4判なら30穴、B5判なら26穴を開けることができる。
自作ルーズリーフ派にはなくてはならないパンチだが、こんな便利なものをわたしが使い始めたのは、実は21世紀になってからだった。
1970年代の末期、ルーズリーフのブームが児童学生の間で爆発的に発生した。ノートよりルーズリーフのほうがかっこいい! リーフを交換できるのでさまざまな授業に対応できる! 書き味や色、罫線の異なるリーフを選択することができる! さらに友人同士でシェアもできる! バインダーも安価でカジュアルなものが続々と登場し、メーカーもこぞってルーズリーフの種類を増やしていく。
わたしもご多分に漏れず、小学校の高学年あたりからルーズリーフになびきはじめ、ノートとの併用ルールに頭を悩ませながらも、高校生のころにはほぼ完全にルーズリーフに移行していた。
大学に入り、わたしのルーズリーフ熱はまるで憑き物が落ちたかのように急速に冷めていく。
理由ははっきりしないが、たぶんわたしは「高校生の頃に使っていたもの=ガキっぽくて嫌な思い出をまとわりつかせているもの」と認識していたのだろう。高校時代も、受験に失敗して浪人になった一年間も、大学に入ったことでリセットしたかったのだ。
授業のノートはルーズリーフではなく、A5判のリングノートに代わっていた。
それとは別に、大学に入った時期、今まで自分の周りになかった文明の利器が登場する。
ワープロとコピー機である。
ワープロは大学一年のときに入手した。コピー機の購入は大学二年か三年のときだ。
この頃わたしは、「紙に情報を集約して持ち歩く」ことを憶える。いままではあくまで受験に集約した学習だけがインプットすべき情報だった。だが、受験という壁を越え、趣味を通して興味を拡大する楽しみに覚醒めたわたしにとって、「知らなかったことを知る」「情報を収集する」喜びは新鮮で格別なものだった。
ワープロとコピー機は、そういった情報を自分専用の紙にして持ち歩くことを可能にしてくれたのだ。
本来なら、ここでルーズリーフとゲージパンチの組み合わせが登場してもおかしくはない。
だが、わたしはルーズリーフには戻らなかった。
わたしがゲージパンチを使わなかった理由は、単なるルーズリーフ離れに留まらない。思い当たる節は2つある。
一つは、システム手帳のブームだ。
情報の集約はシステム手帳とA4用紙が主流となり、常に持ち歩くデータはワープロやコピーを駆使して作り上げたバイブルサイズのリフィルに、紙面を大きく取ったほうがいいものはA4サイズのまま、ワープロのプリントアウトを透明ポケット式ファイルに入れて持ち歩くようになった。その後、両者のいいとこどりを目指し、社会人になってからそれら用紙はA5判6穴の大型システム手帳に集約されていく。
もうひとつは、A5サイズにおける「余計な穴」問題だった。
ルーズリーフは用紙サイズに関わらず穴の間隔(ピッチ)が同じなので、ひとつのゲージパンチで各種用紙に穿孔が可能だった。
ルーズリーフの穴は、A4判が30穴、B5判が26穴、A5判は20穴である。
A4用紙の30穴、B5用紙の26穴はそのまま問題なく開けることができるのだか、A5用紙に穴を開けると、ゲージパンチはその特性上22個の穴が開く。市販されているルーズリーフには開いていない、端に無駄な穴が2つ、余計に開いてしまうのだ。
この穴が嫌で、わたしはゲージパンチの使用を避けて生きてきたのだ。
21世紀になった現在、当時はなかったA5判用のゲージパンチ「ゲージパンチGP-20」も登場している。GP-20は市販されているルーズリーフ同様、綺麗に20穴が開けられる。
わたしがゲージパンチを本格的に使用するようになったのは、実はこのA5判用ゲージパンチが発売になってからだ。
今は仕事でのメモや自宅でのラフなど、用紙は様々なものを脈絡なくばらばらに使っている。中でもパッドになった紙が好きで、中の用紙だけを数枚はぎ取ってクリップボードに入れ持ち歩くことも多い。
そんな紙もただのメモなら捨ててしまうが、少しでも取っておきたいものが発生すれば、ゲージパンチで穿孔してバインダーに綴じておく。
最初はただ時系列に放り込んでおくだけだが、必要があればそこから重要なものだけを抜き出し、改めてバインダーに綴じ直す。A4判の紙も最近は横長で使うことがほとんどなので、A5判用のゲージパンチで左短辺を穿孔し、3つに折り込んで保管している。
情報別に選り分けられたバインダーは便利で、ノートのように「あれはどこに書いたっけ」がない。
またどんな用紙でも、溜まってくると楽しいものである。ノンジャンルで何でも放り込んであるバインダーを繰ってみると、忘れていたことがたくさん書かれていて新たな発見がある。 以前はスキャンしてデータで保管していた。だが、保管されたデータを閲覧する機会はほとんどない。「紙として眼前にある」ことがわたしにとっては重要なようで、よほどのことがない限りオリジナルの紙を捨てることができないのだ。
どんな紙でも、一枚いちまいパンチして閉じていくと、愛着が湧くものだ。「これはわたしの中では選ばれた紙なのである」と思う、その瞬間が実に楽しい。ただの作業ではない、紙をさくッと穿孔する行為そのものが本当に楽しいのである。
ルーズリーフのブームは今は昔かもしれない。しかし、製品群として消滅したわけではないし、中の用紙を組み替えて必要な情報をバインダーに集約する方法は決して古びない。ゲージパンチも消滅どころか、むしろ進化している。まだまだ楽しませてくれそうである。
【後日譚】
何が凄いって、これも実は「使っていない文房具」だという。
正確に言えば、「1980年代には使っていない」のですけど……。
記事中に出てくるゲージパンチGP-20、まさか初代から30年近く待つことになろうとは……でもホント出してくれてありがとうございます、カールさん!
今はB5を穿孔することはなくなりましたが、A4は初代ゲージパンチで、A5はゲージパンチGP-20で開けております。ゲージパンチもゲージパンチネオ→ゲージパンチGP-2630と代替わりしてはいるんですが、やっぱり大きい方は30穴と26穴にしか対応していないんですよね。まあ構造上致し方ないのですけど。
というわけで、二つあっても特にかさばるわけではありませんので、みなさまもぜひ2個持ちで宜しくお願い致します。 -
1980年代は文房具の新製品がとっても面白かった時期でした。
そんな伝説の時代を生きてきたわたしの、ちょっとした回顧録。
初出:2017年8月18日
セロテープが欲しい、と思った瞬間に、テープが手許にあった例しがない。
大学時代に所属していた推理SF研究会というサークルは、日頃は創作小説を書いて会誌を編み、学祭に向けては8ミリフィルムで自主映画を撮るという実に忙しい集団だった。
当時のSF研は2ヶ月に一度、コピー誌を発行していた。
創作小説オンリーの同人誌である。
まだ手書きとワープロ原稿が混在していた時代、B5判で2段組されたレイアウトの紙面で、平均して50ページから80ページの冊子を隔月刊で生み出していたのである。
わたしの通った大学は、サークル用の部室がなかった。SF研は、編集作業そのものを学生ホールの机上で行った。
10名ほどが一気に座ることのできる大きなテーブルを囲み、寄せられた原稿をそこで編集するのだ。
基本はB5判のコピー用箋を使用する。ワープロ印字の場合は熱転写用紙で入稿されるが、感熱紙は御法度だった。イラストやロゴ、ノンブルをのりで貼り込む必要があるからだ。
編集に必要な文房具は、号ごとに交代で編集長となった部員の持ち寄りだった記憶がある。足りないものは近所の文房具店に買いに行くが、当時から文房具マニアで通っていたわたしの私物を頼られることもしばしばだった。
戸惑うのは面付けだった。
B5判の用紙を2枚並べ、B4で両面コピーを行う。裏と表のページの連続性を理解しておかないと、できあがった本が乱丁になってしまう。簡単な台割りを作り、順序を確認しながら二枚を裏側からセロテープで留めていく。
しかし、どんなに慎重に進めていても、やはり左右を間違えてしまうことがあった。
作業のための文房具は学生ホールに持ち込んでいるが、コピーセンターに入ってしまうと手元にそういった文房具はない。貼ってあったテープをはがして再利用したくてもうまく剥がせず、苦労して取り外しても二度と貼りついてくれないこともあった。
編集作業に限らず、セロテープを持ち歩けたらいいのに、といつも思っていた。
当時、小巻のセロテープには、テープ本体に巻きつけるブリキのミニカッターが付属していた。便利ではあったが、裸で持ち歩けば金属のギザ刃でけがをするし、かといって小巻テープの入っていた箱には持ち歩きに相応しい強度はなかった。
スタイリッシュで、常に持ち歩けて、使い勝手のいいセロテープはないものか……そう思いながら文房具店の店頭を眺めていたある日、わたしの目に夢のような製品が飛び込んできた。
ニチバンのセロテープ「CTくるり」である。
テープパーツを一回転させると一定の長さのテープが発生すること、カッター部分がプラスチックでけがの心配がないこと、そして何より薄型で携帯に便利であること。テープの粘着面露出が最小限で、埃に強いことも特徴だった。
あらゆる意味で、わたしが待ち望んでいたセロテープだった。
これでセロテープの常時携帯が可能になる! 喜び勇んで購入し、学生時代はほぼポケットに入れたままで過ごすほど好きな製品となった。
「セロテープない?」と訊く友人がいれば、すぐさま「ほら」とジャケットからCTくるりを取り出してみせる。
左手でボディをつまみ、かなり扁平な楕円に潰されたテープ本体を右手で押すと、テープパーツがくるりと回ってテープの端が浮く。
浮いた端を持って、今度はテープパーツを逆回転。これで一回分の長さが繰り出される。必要があれば、もう一回転だ。テープを伸ばすたびに、テープパーツはパタパタと回転を繰り返す。何度でも、お気に召すまま気の向くままのパタパタママである。
その当時にはなかった言葉ではあるが、たぶんわたしはドヤ顔をしていたのだろう。友人はただ黙って、切り取られたテープを受け取り作業に戻った。
そういえば、幾度となく取り出して使っていたはずなのに、「便利だな」とか「かっこいいね」と言った友人はひとりもいなかった。なぜだ。ドヤ顔がいけなかったのか。
CTくるりは会誌の編集に活かされたのはもちろん、ちょっとした掲示物の貼り出しや破れた教科書の修理、封緘作業にも便利だった。中でもシステム手帳のオリジナルリフィルを作る際、パンチ穴を強化するためにセロテープを貼ってからパンチで穴を開ける作業において、日常でも目立った活躍を見せてくれた。
替えテープがなくなり、補充が効かなくなって、残念ながら本製品は小生の手許から消えていくことになる。
今でもセロテープを携帯したいと思うことはあるが、残念ながら後継となる製品が存在しない。小巻収納カッターという、埃が入らないケースタイプのものはあるが、CTくるりの携帯性能には遠く及ばない。
実に惜しいことだと思う。何らかの機会に復活してくれないものか。別に今さら「カードサイズです!」などと強引に謳わなくてもいいので。
【後日譚】
こいつほど便利で役立つカード文具はなかったです。
でもカードサイズって厚さじゃなかったので、システム手帳のカードホルダーには入らなかったんですよね。
テープ関係で画期的なシステムだ! と思ったのは、このCTくるりと、あとはスリーエムのハリポップくらいですかねえ。どっちも今では手に入らないわけで、復活してくれませんかねえ。