"【文房具を語る】"カテゴリーの記事一覧
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永いこと文房具マニアを名乗ってきましたけど、ひとつだけひっかかることがありました。
テレビ東京『TVチャンピオン』第1回全国文房具通選手権のことです。
第2回(1999年)に高畑正幸が前文具王不在の状態で優勝し、その後第3回、第4回と優勝を重ねたことはつとに有名です。
では、第1回とはどういう大会だったのか? 見た記憶すらないのです。これが。ホントに。
第1回全国文房具通選手権は、1993年(平成5年)9月16日に放映されています。
以降、第1回についての情報は書籍『TVチャンピオンへの道!!』(テレビ東京著/データハウス発行 1997年7月19日刊行)に依ります。
本書で語られている内容を、引用の範囲で以下に記載致します。
第1ラウンド:銀座伊東屋
【出題】各フロアにある文房具について3つのヒントが出され、早い者勝ちでその製品を持ってきた者に1ポイント。だんだん階を上がっていき、最後に得点が多い順に第2ラウンドへ勝ち抜け。
第2ラウンド:日本文具資料館
【出題】出題された文房具を視覚・聴覚・触覚で確かめ、メーカー名と製品名を解答する。
決勝ラウンド:スタジオ
【出題】えのきどいちろうとやくみつるが仕事をしている(という設定)。彼らが机から落とすものをヒントに早押しでメーカーと製品名を答える。
第1ラウンドからしてハードです。旧伊東屋の中を早押ししながら点を稼ぎ、階上に向けて進んでいく──まさに『死亡遊戯』。
ここで何名参加し、何名が第2ラウンドに進んだのかは、本書には記載がありません。
第2ラウンドはさらにハードです。液体のりを当てる問題ではシャーレに液体のり、5種類のボールペンメーカーを当てる問題ではキャップとボール(!)のみ……。
最終ラウンドは、記述で見る限りは3名による決勝戦。
やくみつる氏が落としたものは消しカス、えのきどいちろう氏が落としたものはシャープペンの芯……。
決勝ラウンドに進出した方の名前は明記されています。
富山邦生。
松本巌。
古澤あい子。
そしてこの中で、決勝ラウンドを制した初代文具王は──古澤氏でした。
文房具イラストの第一人者であり、文具王のイラストに多大なる影響を与えた富山邦夫=富山邦生=富山祥瑞氏がここに参加していたこと自体、初耳でした。
松本巌氏に関しては、ググって出てくるのが出場したご本人かどうかの確証は得られませんでした。
古澤あい子氏はいまググると、ぺんてるのコーポレートレポート2009が出てきます。『TVチャンピオンへの道!!』記事内では「オフィスのファイリングシステムを企画提案するコンサルタント会社に勤務」とありますので、恐らく収録時はコンサル会社にいて、その後ぺんてるに転職されたんじゃないかなあと思っています。
古澤氏がディフェンディングチャンピオンとして登場しなかった理由はもちろん判らないわけですが、もし高畑氏が挑戦者として古澤氏と戦ったらどうなったのでしょうか。
そして、もしわたしもその場にいたとしたら──まあ、まったく歯が立たなかったのだろうなあと。それはifじゃなくて、事実ですけどね。
本書は図書館で借りたものなので、期限が来れば返却せねばなりません。
古本も検索しているのですが、なかなか出てきませんね。
でも可能であれば手許に置いておきたいものです。 -
1980年代の文房具を語る連載は、急な打ち切りで終了しました。
最終回のネタは、最初からこれにするつもりだったのです。
初出:2018年11月16日
文房具は、側にないと何の役にも立たない。
欲しいときにいつも手の届くところにある、というのが理想である。
安価な筆記具やメモ帳などであれば、自宅、鞄の中、職場のデスク、あるいは学校の個人ロッカーなど、複数の場所に配置しておく方法もあろう。
だが、筆記具や紙ではない、その他の文房具ではどうだろう。
あったら便利なのは判っているが、いつ使うか判らないものを複数所持したりあっちこっちに配置したりするのは、心理的にも金銭的にも厳しい。
また、そういったそれなりの嵩のある文房具を複数持ち歩くのにも、限度がある。
そういうニーズがあるから、持ち運びのためのコンパクトな文房具が生まれてくるのだろう。
しかし持ち運びに便利な文房具は携帯性をあげるため、通常のものより小さかったり軽量だったり使用範囲が狭かったりパワー不足だったりする。
結果として、エマージェンシーでは助かるかもしれないが、持ち運びに特化した文房具は常用のそれを脅かす地位にまでは登り詰めることができない。
とはいえ、その枷を打ち破る文房具もかつては存在していた。
今回は、わたしがこの人生で一番便利だったと思う文房具の話をしたい。
その名はファクトリー。メーカーは、あのチームデミを生み出したプラスである。
時は1986年。
「コンパクト文房具セットブーム」という社会現象まで引き起こしたチームデミ発売から、わずか2年。プラスは次の手を打って出る。
チームデミは、オフィスでOLが事務仕事で使うという設定の、小さな文房具をスチロールのスポンジケースに詰め込んだキットだった。
そのひとつひとつの文房具はコンパクトでありながら実用性を損なわない優れたものばかりだったが、男性の手にはやはり小さく、使い勝手がいいとは言いがたかった。
女性のオフィスワーカーが使う文房具がチームデミだとするのなら、男性のオフィスワーカーが使う文房具とはどんなものか。
プラスはデスクワークを行う女性に対し、男性はノンデスクワーカーを想定してきた。
1980年代後半の男性の仕事は、デスクに向かっているとは限らない。営業なら外回りがあるし、現場に出れば机があるとは限らない。移動中の電車内、またはちょっと寄った喫茶店での簡単な作業も想定できる。あるいは出張先でも、さらに言えば駐在先でも──。
ありとあらゆる職業が、机に向かっているわけではないのだ。しかし、事務や作業が発生する場所には必ず何らかの文房具が登場し、その知的生産をサポートすることになる。ならば、机に常備されていると便利な文房具を、使い勝手を極力変えずコンパクトに持ち運ぶようにすればいい。
プラスは、チームデミのコンセプトとは逆方向の製品を世に提案した。
合体ではなく、変形だ。
それが「ひとつのボディに複数の文房具の機能を内蔵した」ファクトリーという名の複合文房具だったのだ。
翌、1987年。
わたしは晴れて東京の大学生として生活を開始していた。
学生寮と大学を往復するだけの毎日だったが、サークル活動の時間で困ることがあった。
自室であればどうということのない作業が、サークル活動を行う学生ホールでは困難を極めたのだ。
多くの大学は公認サークルであれば部室を有し、そこに活動に必要な道具──文房具を含む──を常備しておくことが可能だと聞いたことがある。だが、わたしの通っていた大学はサークルの部室というがなく、本館一階の学生ホールにある長机が「たまり場」となっていた。
小説や漫画をオリジナルで書き、コピー誌に編むことを主な活動としていた我々は、こと文房具に関しては作業のたびに誰から自宅から道具を持って来ざるを得なかったのだ。
そして、そういった作業とは別に、わたしの日常にもその「文房具がなくて困る問題」は頻発していた。
例えば、学生ホールで読んでいた漫画雑誌にアンケート葉書が挟まっているが、切り取るための刃物がなかったり。
あるいは、学生ホールに展示ポスターを貼り出すが、画鋲がうまく取れなかったり。
他にも、寮に届いていた封書を読む暇なく鞄に放り込んで大学に来てしまったり。
ペンケースに入れている15センチ定規より遥かに長いものの長さを測りたくなったり。
コピーしてきたレジュメを配りたいのだが、複数ページを綴じる必要があったり。
教科書やノートが永年の酷使で破れてしまったり。
システム手帳のリフィルサイズに作ったオリジナルの用紙をコピー用紙から切り出し、いざ穴を開けようと思ったら専用パンチがないことを思い出したり。
これらの「あの文房具があればすべて解決するのに!」的ピンチを、ファクトリーはたったひとつで解決してしまうのだ。
さらに、メンディングテープを収納する基部に蓋があり、開けるとそこが筒状の小物入れになっているのだが、わたしが100円玉を「命玉(いのちだま)」と呼び収納するそここそが、日々の生命線だった。いざと言うときのための、最後の武器。最大で5枚入るのだが、ぎゅっと詰めてしまうと蓋の基部と干渉してしまい、ラスト1枚は何をどうやっても取り出せなくなる。悔しい思いをしたことが、まるで昨日の出来事のようだ。
ファクトリーほど、大学時代にわたしの役に立った文房具はなかった。
常に上着のポケットに忍ばせていた。
分厚く持重りのするボディなので、上着のある時期はよかったが、シャツだけの真夏は仕方なく鞄に放り込んでいた。
消耗するのはメンディングテープだけだったが、ファクトリーは専用の替えテープが発売されていた。これだけは頻繁に買って替えた。
わたしは近眼のため近距離はよく見えたからフレネルレンズのルーペを使うことはなかったが、ルーペパーツは実は簡易的な直定規にもなっていた。ちょうど6センチの長さで、レンズ裏側には0.5センチ刻みの印もついていた。
実はホッチキスを押さえ込むパーツが弱く、ここが外れてホッチキスがぶらんと出てきてしまうことがよくあった。
はさみは特に漫研の女性たちに人気で、握りばさみの形状がたいへん受けていたことを思い出す。なにか切ろうとするたびに「ねえ、はさみはさみ!」と女性陣にねだられ、得意げにファクトリーを出していたヤング他故壁氏は、要するに単なる便利屋だったのではないだろうか。
わたしのファクトリーは3年間の酷使で壊れ、天寿を全うした。
その時すでにわたしは社会人となっており、会社には自分のデスクがあり、営業に出かけるときもアタッシュケースに必要な文房具を詰めて持てる環境になっていた。仮にファクトリーが現役で使用可能だったとしても、その出番はなくなっていたのだ。
2000年に「旅行文具」として新しく設計されたファクトリーが登場した。懐かしさもあってすぐさま購入したが、使用頻度も高くなかったのに精密ドライバーの蓋部分が壊れてドライバー2本を紛失し、そのまま現役を引退した。
ファクトリーは80年代末のわたしにとってなくてはならない文房具だったが、今はその活躍の場を与えてあげられそうもない。
ただ──もしまた復活することがあるとしたら、握りばさみとテープカッターだけは内蔵して欲しい。そのふたつがないとファクトリーと呼べない、呼びたくないと個人的には思っている。
またいつか会おう、戦友よ!
【後日譚】
打ち切りの連絡は突然でした。
わたしは次の回のために、すでに「ミーとケイのサイン万年筆」を書き終えていました。
でも、最終回のネタは、最初から決めていたのです。
そう、ぜったいにプラスのファクトリーにしようと。
というわけで、ミーとケイのサイン万年筆はお蔵入りし、ファクトリーが最終回を飾りました。
このときの原稿は、たこぶろぐにて掲載しております。
なので、たこぶろぐ上では【ブンボーグ・メモリーズ】は29本あるのです。
連載初期と較べると図解イラスト部分が上手くなっているように見えるかもしれませんが、現物のあるものは写真を撮って下絵にしているので、そういう意味では下手に描きようがないのです。
あと、クリスタのスクリーントーン機能が優秀で、グラデーショントーンばっかり使っている印象がありますね。テクノロジーに溺れるタイプだわたし……。 -
1980年代を象徴する文房具と言えば、ワープロです。
そう、ワープロは文房具──もっと極論すれば、ワープロは筆記具なのです。
初出:2018年10月19日
ワープロという機械をご覧になったことはあるだろうか。
ここでいうワープロは、パソコンにインストールされるソフトウェアのことではなく、画面とキーボードと(多くは)プリンターを一体化させた文書作成印刷機のことを指す。
わたしは「ワープロは筆記具だ」という意識を持っていて、20世紀末に大流行したワープロはタイプライターと同じく文房具に分類されると信じている。
そして、今回紹介する製品は、ワープロであり、電子文具であり、そして何より筆記具であるとはっきり断言できる、まさに時代の徒花である。
その名をワープロバンク2と言う。
時計の針を1989年に戻そう。平成が始まった年だ。
時代はOAブームとも呼べる時期だった。
オフィスオートメーション化された職場からは紙がなくなり、将来的には筆記具および文房具全般がその出番を大きく減らすのではないかと言われていた。
唯一の光明が、OA機器とそれに付属する消耗品だと思われていた。そんな時代の話である。
わたしはまだ大学生だったので、そういう職場での激変を知らない。身近にあるOA化と言えば、大学生のバイト代でも買えるようになったワープロと、大学周辺にやたら存在していたコピーショップのコピー機たちだけだ。
最初にワープロを入手したのは、1986年。
それで小説を書くのが、わたしの趣味だった。
わたしのワープロ選択のキモは文書作成能力と保存能力、続いて版下としてのプリント能力だ。
ただ一般的には、その当時重要だったのは文書作成機能ではなく、むしろ「プリントアウトで何ができるか」だった。
オフィスでなく家庭にワープロが普及した最大の理由が「年賀状作成」だったからだ。
毎年の年賀状を作成するのはもちろん、プリントアウトによって家庭内でも便利になる対象が当時はたくさんあった。
その中でも最たるものが、ビデオテープのラベルシールだった。
ビデオテープをいうものをご覧になったことはあるだろうか。
細長い弁当箱のようなプラスチックのケースに、磁性体の塗布されたテープがリールに巻かれて収納されている。テープじたいを指で触ることができないように、可動式のシャッターがついている。
そのシャッターの反対側──ビデオデッキにテープを挿入する際に手前になる背の部分に、そのテープに何が録画されているのかを記入するシールを貼るくぼみがある。
テープ表面中央に貼る四角いラベルシールと、背に貼る細長いラベルシールが予備を含め用意されていた。
ビデオテープは、VHSとベータというふたつの異なる基準によってまったく形の違う製品が2種類発売されていたのだが、互いに共通していたのは、このラベルシールを貼らないと何が録画されているのか後でまったく判らなくなってしまう、という点だった。
わたしの使っていたナショナルのマックロードはVHS機だったが、当時は最大でもビデオテープ1本で120分しか録画できなかった。ビデオテープの単価は下がり始めていたが、それでも少ない手持ちからビデオテープに回せる金額は決まっていたし、そもそもビデオテープはでかくてかさばって収納にも困る代物だった。
だから経済的な理由で3倍モード(画質を落として120分テープに360分録画できる方法)を多用していたが、背ラベルを正確に書かないと、あとでどこに何が入っているかまったく判らなくなる。
だから、背ラベルは書きたい。
しかしながら、自分の字で書いた背見出しがずらりと並ぶことほど気持ちの悪いものはない。
自分が見ても嫌なのだ。とてもではないが、このテープの並んだ部屋にひとは呼べない。
当時は学生寮だったので、外部から友人が来訪することは稀だったが、部屋に来た寮生にはテープが丸見えになる。
そこに自分の字が並んでいる。カラーボックスを占拠している。なかなかに恥ずかしい光景である。できれば何とかしたい。
ワープロバンク2は、その手書き背ラベル問題を解決する画期的な存在だった。
位置決めした用紙にまっすぐ印字することにのみ特化したこのハンディワープロは、背ラベルの作成に絶大な効力を発揮した。
わたしはワープロバンク2を入手し、それまで手書き背ラベルだったテープを取り出し、せっせと背ラベルを印字し直して貼り替えた。
手で書いて、握って、印字する。直感的で判りやすい。作業はたいへん楽しかった。暇つぶしにも最適だった。至福のひとときだった。
部屋を訪れた寮生たちにも、この背ラベルは評判だった。テープをひとに貸すときも安心だった。標準モードで録画されたテープ(たいていは洋画劇場などで放映された映画)なら作品タイトルを、3倍モードで録画されたもの(日々のテレビ番組など)なら「昭和64年1月1日〜平成元年1月31日」のように、録画時期を印字して活用していた。
21世紀になってビデオテープは姿を消し、手許にあるワープロバンク2も電源こそ入るが、感圧式液晶が文字を認識しなくなってしまっている。
もう手元のこれは、ワープロでも電子文具でも、筆記具でもない。
電子機器の寿命は短く、儚い。
電子文具の話題はたいていしんみりした締めくくりになってしまうが、使っている当時は画期的で楽しく、有用だったのだ。
だから、せめてわたしだけは、使ってきた製品たちを忘れないようにしたい。
ありがとうワープロバンク2。
きみのことは決して忘れないよ。
【後日譚】
1989年といえば、2020年の現在から数えれば30年以上前です。
30年以上前の機械が使えなくなっていても、ある意味しかたないですよね。
でも、これが文房具だったとしたら?
万年筆なら、使用済みであったとしてもメンテナンスすればほぼ問題なく使用できそうです。
油性ボールペンはインクが死んでいる可能性は高いですね、替芯があるなら使えそうですけど。
鉛筆やシャープペンシルはほぼ無問題でしょう。
水性ボールペンや水性マーカーは、気密が保たれていればいけるかもしれません。
油性マーカーは絶望的ですけど、これも気密次第でしょうか。
ゲルインクボールペンは間違いなくアウトでしょう。
消しゴムもものによっては硬く変質してしまっているかも。
ノートや手帳は酸性紙や高濃度の再生紙だとぼろぼろですねきっと。
バインダーは金具が金属だと、あるいは錆がでている可能性もあります。
でも、他の文房具と違って、ワープロはジャンルごと死滅してしまいました。
今ではワープロは完全に生産終了しています。一部のメーカーによるインクリボンの供給は続いていますが、これもいつまで入手できるか判らないですよね。
テプラより1年後輩なのに、ジャンル全体が死滅しようとしているのです。
もう絶対に復活しないと思うので、やっぱりわたしが忘れないように、いつまでも語り継いでいかねばならないようです。 -
1980年代って本当に楽しい時代でした。
そして同時に、無邪気な時代でもありました。
初出:2018年9月21日
書くことは楽しい。
自らの手から筆記具によって生み出される、わたしだけのオリジナリティ。
字もそうだし、絵もそうである。
そしてそこに寄り添う、時代時代の相棒たる筆記具たち。
その時代での筆記具たちの活躍を、意外なほどこの手が憶えている。
あのシーンではあの筆記具、このシーンではこの筆記具──。
ただ、わたしはひとつだけ、大きな勘違いをしていた。
セーラー万年筆の「まんがペン」は、1982年の発売だった。
わたしは永い間、このまんがペンを「小学生の時に愛用していた」と思い込んでいた。
だが、実家に帰り、発掘された当時のまんがペンをじっくり見てみると──ボディに刻印(空押し)がある。
なんと、製造年月日が82年11月なのだ。
1982年といえば、わたしは高校一年生である。
高校一年生男子が、児童向け・ファンシー文具に分類される70円のペンを買うだろうか。
──いや、買ったからこそ、ここに現物があるわけだが。
いまGoogleで「まんがペン」を検索すると、過去にToolsで販売されていたまんがペンが出てくる。デスクペンに極黒スペアインクを入れて使う製品だ。
同じセーラー万年筆の製品ではあるが、今回のまんがペンはそれではない。
要はプラチップのカラーペンである。ミリペンほどの精度はないが、0.5ミリ前後の幅で線が引ける。かりかりとした書き心地で、力を加えると割れそうな硬さのペン先だ。
全長は115ミリ、直径は8ミリ。細くて短い、かわいらしいペンである。
ググってもまったく資料が出てこないので、カラーバリエーションが判らない。手元にはピンクとオレンジと青のインクのものがある。黒や赤もあったのではないかと想像しているが(黒がなくて何が「まんがペン」か!)、残念ながら詳細は不明である。
これは漫画をバリバリ描くペンではなく、あくまで漫画という言葉に憧れる小学生が数本買ってカラーでお絵かきを楽しむ、そういうコンセプトのペンだと思う。
ではなぜ、わたしはそういうペンを高校生の身でありながら買ったのであろうか。
ここで記憶の混乱が真相解明の邪魔をする。
記憶の中のわたしは小学生で、趣味のノート漫画にこのまんがペンを使っている。ただ、カラーには興味がないようで、使っているのは黒(あるいは青)だけだ。
そもそもカラーセンスが欠落している人間なので、だから本連載でもイラストはモノクロなのだが、それはいったん措いておいて。
手元にあるまんがペンは前述通り、ピンク、オレンジ、青。
高校一年生のころ描いていたノート漫画は完全に黒一色、シャープペンシルのみで描かれている。
シャープペンで下書きをし、ペン入れをして下書きを消す、などという高度な作画はまだ行っていない時期だった。
では、このまんがペンはいつ、どこで使用されたのか──?
疑問はのちに氷解した。
まんがペン発掘時に、数冊のノートやルーズリーフも合わせて発掘されたのだ。
漫画を描いたノートではない。当時の学習の痕跡だ。
それを見て、わたしの記憶が大いに間違っていたことを確認する。
わたしはこのまんがペンを、漫画を描くために買ったのではない。
教科書やノートにカラーのアンダーラインを引くために買ったのだ。
まんがペンで絵を描く少年他故壁氏はまったくの妄想であり、おそらくどこかで捏造された記憶であろう。
たぶん、わたしはまんがペンの黒や赤を買っていないのだろう。存在していたとしても、黒ではアンダーラインに相応しくないし、赤はピンクで代用できるからだ。
そして、おそらくわたしはまんがペンを学校に持ち込んでいない。
授業で使うのではなく、帰宅後の学習あるいは塾での使用にとどめておいたのではないかと想像する。だから高校での授業に記憶が直結せず、自宅でノートに書く=漫画をノートに描く、という記憶の曲解が生まれたのだろう。
まんがペンはわたしのとって漫画の友ではなく、むしろ学習の友、受験の友だったのだ。
大学一年のとき、戯れで応募した雑誌のイラストコンテストで佳作(雑誌の表記上は「その他」だった)に入選したことがある。その際に出版社から送られて来た景品が、まんがペン蛍光ペンタイプだった。
蛍光ペンのインクで蛍光ペンのくさび形チップを持つこのペンを「まんがペン」と呼んでいいのかどうかは判らないが、本体に書いてあるのだから仕方がない。
だが、まんがペン蛍光ペンは実家にしまわれたまま使用されず、21世紀を迎えることとなる。
受験勉強をしていた時期とは異なり、ノートや教科書にアンダーラインを引く機会は激減していたのだ。
いまでも、ややかすれ気味ながら、まんがペンたちは現役で使用可能である。
日本の技術は驚くほどだ。
まんがペンを使ってみると、昭和のころの空気を思い出す。にせの記憶かもしれないが、その記憶の中での少年他故壁氏は、実ににこやかな笑顔で絵を描き続けている。
平成の、そして次の世代の少年少女たちにも、こういったペンで気軽に絵を描いたり字を書いたりして欲しいと、切に願う。
まんがペンの「まんが」が──手から生み出される手書きの力が、消えてなくならないように願うのみである。
【後日譚】
蛍光ペンの名入れバージョンは、あまとりあ社の景品ですね。『戦え! イクサー1』増刊号でイラストが載ったときの副賞でした。いっしょにイクサー1のブロックメモ2種類も送られてきましたね。いまどき雑誌にイラストが載ったくらいで、こんなに景品送ってこないですよねきっと。そういう意味でも、1980年代は楽しくて無邪気な時代だったのでした。 -
1980年代の文房具を語るおっさん泣かせのブログですが、今回はもうちょい昔の1979年。
姿形は変わっても、便利なものは生き残る。
初出:2018年8月17日
そもそも学校にカッターナイフを持っていくことは禁止されていた。
1970年代の、わたしの通った小学校の話である。
教室には電動鉛筆削りが備えられ、ナイフの所持は必要がないとされていた。
授業で工作をする時も、低学年ではハサミだけが許可されていた。
自分用のカッターナイフを持ったのは、工作での使用が許可された高学年になってからだったと記憶している。
扱いが下手くそだったので刃を長く出して折ることは日常茶飯事で、しかも刃を替える際にべたべた触るからか、ろくに使わないうちに刃に錆が浮いてくる始末だった。
まっすぐ切るのに鉄の定規を使う、なんて思いつきもしなかった頃だ。
もちろんカッターマットも知らなかった。
1979年。
中学に上がり、図画工作の授業は技術家庭科に変わった。カッターナイフで段ボールを切って工作する授業はなくなったが、文房具としてカッターを所持することに制限はなくなった。
その時わたしがパートナーに選んだのが、この年に発売されたオルファのタッチナイフだった。
縦35ミリ、横40ミリのかまぼこ形のボディ。厚さは5.5ミリ。スライド式のカッターで、刃を折ることも替えることもできず使い切りの製品である。
スライドはロックがなく、スライド終端の盛り上がったパーツにスライダーを乗り上げると簡易的なロックになる。乗り上げるところまでスライダーを動かさなくても指を離さなければ刃は動かず、その場合は指を離せばスプリングで刃は自動的に内部に収納される。
安全であり、持ち運びが楽で、ハイカーボンステンレス刃は錆びにくいので水洗いにも対応できた。
大人だけでなく、子供たちにもこのタッチナイフは大流行した。もう鉛筆を削る時代ではなかったが、「ちょっと切りたい」という願望は老若男女を問わずみな思っていたことだったのだ。
授業で工作がなくなったからといって、カッターナイフの出番が減るわけではない。
むしろハサミを持ち歩かなくなった分、タッチナイフの出番は多かった。
今ほどお菓子のパッケージが開けやすくなかった、という側面もある。
雑誌やプラモを買うと、ビニールのひもでガッチガチに縛ってあったりもした。
手紙の封を開けるのにも便利だった。
雑誌の切り抜きもした。透明のB5版カードケースを購入し、中に雑誌の切り抜きを入れて下敷き代わりにするのが流行っていたのだ。
だが、いま思うと最も頻度がダントツで高かったのは、消しゴムのスリーブを切って短くすることだった。
タッチナイフとの蜜月は続いた。
中学、高校の6年間は常にタッチナイフが側にいた。
いざというとき役に立つ、それ以外では毎日のように消しゴムのスリーブを切る専用の道具。間違いなく、なくてはならない相棒のひとりだった。
「誰かカッター持ってる?」
と訊かれれば、
「はいよ」
と投げて渡す。
そういう学生時代を過ごしてきた。
高校を卒業し、趣味の漫画にスクリーントーンを使用するようになって、わたしのメインカッターはタッチナイフから、同じオルファのブラックS型とデザイナーズナイフに代わる。
タッチナイフでは細かなトーンの切り出しができなかったからだ。
また、トーンを削って効果を出す際にも、刃先が戻ってしまうタッチナイフでは作業がしづらかった。
その後も筆箱にはタッチナイフを入れていたが、次第に他のカッターナイフが手元に増え、必要に応じ持ち歩くものを替えていく経緯で、いつしかその姿を消すようになる。
2018年。
久しぶりに店頭でタッチナイフを買ってみて、形が変わっていることに気づいた。
現行品であるタッチナイフベンリーのほうがオリジナルより若干大きく、スライダーに深い刻みが入っていて滑りにくい。強引に押し込めばスライドロック状態にはなるのだが、この製品はスライダーを持ったまま切る→離したら刃が戻る、を強調した作りなのだと思う。
もうひとつのタッチナイフであるマグタッチは立体的な膨らみがさらに握りやすさを向上させていた。マグネットで冷蔵庫やスチール家具、玄関など「カッターを使いそうな場所」に貼っておける便利さは、他の何ものにも代えがたい。
それでも当時のタッチナイフが懐かしくて、ヤフオクで探して落としてみた。箱で入手したので、いま旧式タッチナイフが手元に90個以上ある。
よく見ないで取引したわたしも悪いのだが、手元に来たタッチナイフはスライダーにCloverのロゴが入っていた。そう、手芸用品のクロバーのものだ。どうも当時、手芸用カッターナイフとしてクロバーがオルファにOEMを依頼していたらしい。
そういう時代だったんだなあ、と感慨深げにクロバータッチナイフを眺めつつ、それを筆箱に放り込んで毎日出勤している。
もう消しゴムのスリーブを切ることはほとんどないが、それでも「ちょっと切りたい」という願望は減るものではない。
便利を持ち歩こう。それが文房具だ。
【後日譚】
旧式タッチナイフはあげたり売ったりしたのですが、まだ50個くらいあります。これは減らないな……。
あと、バーバロースフランスの謎も解けず終いでしたね。なんなんだろ、これ。
【追記:2020年05月21日】
Twitterでオルファ公式さんにお伺いしたところ、
1)バーバロースはネコを描いたフランスの漫画家の名前
2)ネコは特に名前がなく、社内では「オルファ君」と呼んでいた社員もいた
との情報をいただきました。ありがとうございました!
これでまた野望に一歩近づいた!