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1980年代に生まれた傑作文房具を振り返るマニアックな連載。
これぞ世紀の大発明! ゲルインキボールペンはここから始まったのです。
初出:2018年7月13日
ひとには、思い出すたび悔しがる痛恨のできごとというものが、必ずある。
タイムマシンがあったなら、当時に戻って若く見識もない自分を叱りつけ、歴史的瞬間をその目に焼きつけてこんかい! と怒鳴りつけてやりたい──そのくらい悔しい思いをしている製品が、わたしにも存在する。
サクラクレパスの「ボールサイン280」である。
サクラクレパスの製品というと、一般的には「クレパス」や「クーピーペンシル」、「マット水彩」に代表される学童向けの画材関係が広く知られていると思われるが、実際にはその取り扱い製品は多岐に渡っており、また「世界初」と謳う製品も少なくない。
いぜん本連載で取り上げた「ピグマ」も、世界で初めて水性顔料を使用したマーカー(ミリペン)だった。
そしてここに、満を持して登場したのが、「世界初の水性顔料ゲルインキボールペン」ボールサインだ。
それまでボールペンには、油性ボールペンと水性ボールペンの二種類しかなかった。
油性ボールペンのよさとは、筆記距離の長さと、インク残量が見えること。
水性ボールペンのよさとは、発色の良さと、書き出しの軽さ。
両者のいいとこどりをする、そんな製品を発明することは可能なのか?
わたしがボールサインの存在に気づいたのは、1987年になってからだ。
ボールサイン280が発売されたのは、それより3年も前の1984年。わたしは高校三年生だった。
受験を控え、趣味の漫画執筆を封印し、テレビ視聴も一週間にいち番組にとどめ、深夜ラジオを味方に日々受験勉強に勤しんだ毎日だった。この年の芸能や風俗、事件や出来事などはまったく記憶に残っていない。無論、文房具店の滞在も消耗品の補充に限られ、ボールサイン280に出逢うことはなかった。
一浪して大学に入り、一年生は静岡県三島市の一年生校舎に通い、二年生になって晴れて上京を果たす──それが1987年だ。
大学のすぐ近くに、サークルの先輩同輩がたむろする喫茶店があった。そのはす向かいにちいさな文房具店があり、そこを覗いていたときに発見したのが、ボールサイン280との最初の出逢いだった。
顔料で構成されたゲルインキは滲まず、耐水性があり、軽いタッチで字が書けて、発色が黒々としていて実にわたし好みだった。
そもそもゲルインキが何なのか、世界初であったとしても何が凄いのか理解できていなかったわたしだが、その書き味には心底惚れていた。1本目のボールサイン280が書けなくなった段階で、わたしはまたその文房具店を訪れた。
ボールサイン280は、ボールサイン150に変わっていた。
次に同じ店を訪れたときには、併売していたはずのボールサイン280は店頭から消え、ボールサイン80が並んでいた。
もちろんそれぞれの製品は、発売年が異なる。だがわたしはその一年で、ボールサインが280円から80円まで値下げされたかのような錯覚に囚われていた。
同じブランド名のつく製品が、わずかな期間でここまで値下げされた例はあっただろうか。
わたし個人はボールサイン280の軸が好きだったので、ボールサイン80の全身半透明軸は定価以上に安っぽく見えてしまい、そもそもなんで100円じゃなくて80円なんて半端な価格なのか当時はさっぱり理解できなかった。
だが、今なら判る。タイムマシンに乗って、1987年の無知なわたしに教えてあげたい。
ボールサインは挑戦したのだ。油性ボールペンという、ボールペンのメインストリームに対抗するため、当時の事務用(一部では「鉛筆型」などと呼ばれることもある)ボールペンの価格帯に挑戦したのだ。
その当時の事務用ボールペンは、60円ないしは70円。70円タイプには、ボールサイン80と同様の「キャップにクリップ代わりになる出っ張り」が生えている。
その70円の事務用ボールペンと同じ土俵で店頭対決および納品対決しようとしたのが、ボールサイン80だったのだ。
そしてここから、世に言う「ゲルインキボールペン戦争」の火ぶたが切って落とされる。ライバルとなるぺんてる「ハイブリッド」の発売は1989年、ボールサイン80から2年後のことだ。
ボールサイン280が世に出て30年以上が経過し、いまサクラクレパスには「クラフトラボ」と呼ばれる高級筆記具ラインが誕生している。現在ラインナップされている001と002はゲルインキボールペン。ボールサインの、直系の子孫たちだ。
いま手元にあるクラフトラボ001で紙に字を書いても、残念ながらボールサイン280の思い出は蘇らない。もう、おそらく、まったく異なる書き味なのだろう。21世紀の完成されたゲルインキの余韻に浸りながらも、元祖の発売の瞬間をこの目で見ることができなかった当時の自分を呪うしかない。
タイムマシンに乗って、高校時代の余裕のないわたしに教えてあげたい。
どうせ机にかじりついたって浪人するんだ、たまにはゆっくりじっくり文房具店を見て回れ、歴史的新製品を目の当たりにしろ、と。
そして翻り、いまの自分にも言い聞かせるのだ。
いまも変わらず、時代の転換点だぞ、と。見逃すな! 文房具の未来!
(サクラクレパスの表記に従い「ゲルインキ」で記事内を統一しています)
【後日譚】
ボールサインに関しては、結局この記事を書くまでにボールサイン280もボールサイン150も入手できず。ボールサイン80は現役の製品ですけど、キャップのデザインが違う当時のものはやっぱり入手できず。
なので、この連載としては珍しく、サクラクレパスさんに泣きついて当時のカタログ写真をスキャンしていただいたのでした。
でも、そうしてもらってでも描きたかったんですよね、これに関しては。
歴史に残る大発明でしたしね。当時使っていたわたしも大好きでしたし。
この後ハイブリッドがブームになり、それに追随してG-1、ジェルビー、シグノと各社がゲルインキボールペンを発表していきます。そしてハイテックC、サラサ、エナージェルと進化は進んでいきます。
1990年代は定番である油性ボールペンに対し、新興勢力であるゲルインキボールペンが次々に生まれていった時代でもありました。 -
1980年代は発明と呼べるような文房具もたくさん生まれた時期でした。
これなど、まさに発明です。
初出:2018年6月29日
時は西暦1987年──元号で言えば、昭和62年。
東京で大学生となったわたしは、推理SF研究会と漫画研究会というふたつの創作系サークルを掛け持ちしていた。
推理SF研究会は、オリジナル小説を書いて会誌で発表するサークル。
漫画研究会は、オリジナル漫画を描いて会誌で発表するサークル。
ただ原稿を書くだけではない。会誌を発行するという、編集作業と製本作業が毎月のように行われていた。
推理SF研究会の会誌は、テキスト中心でありながら毎回100ページに迫るコピー誌だった。
漫画研究会の会誌も100ページ近かったと記憶している。学祭で販売していた本だけはオフセット印刷だったが、それ以外の会誌はコピー誌だ。
そういった正会誌だけでなく、例えば新入生歓迎号、新入生の自己紹介本、合宿のしおり、その他の企画号外などで、もっとページ数の少ない、薄いコピー誌を作ることも頻繁にあった。
コピー誌の場合、B4で両面コピーされた紙を半分に折り、丁合していく。綺麗に揃えたらホッチキスで綴じ、表紙となるやや厚手の紙を木工用ボンドや両面テープで貼り込む。そして最後に、端を断裁する。サークルに断裁機などないので、金属製の直尺を当ててカッターでざくざく切っていく。
この作業でキモだったのは、実はホッチキスだった。
3号針(大型ホッチキスの針)を使う場合でも、そこまで厚くない本に10号針(一般的なハンディホッチキスの針)を使う場合でも、綴じてから表紙を貼る前にしなければならない作業があった。
ホッチキスの針先は、綴じるべき紙を貫通し、その先にあるホッチキスの底面──「クリンチャ(曲げ台)」と呼ばれる金具にぶち当たる。
クリンチャで先がくるりと内側に曲げられ、眼鏡橋のように丸まって先端が最終紙面にめり込む。
この「眼鏡橋のアーチ」を潰さないと、製本後に表4(冊子の裏表紙)から出っ張った金具が浮き出てしまい美しくないし、ここが擦れて汚れたり破れてしまったりする。
われわれはこの「眼鏡橋のアーチ」を、ハンマーで叩いて平たくする必要があったのだ。
通称、「山を潰す」。これが、地味に面倒くさい。
だが、求めれば与えられるのが、この文房具業界である。
この作業を不要にする画期的な製品が、同じ年に生まれた。
マックスのHD-10F《フラットクリンチ》だ。
ホッチキスの針が綴じるべき紙を貫通した後、今までは眼鏡橋の形に曲げられていた先端を、可動式クリンチャで平たく抱き込むよう改良したのだ。
平たく抱き込むので、フラットクリンチ。
大発明だ、と思った。
3号針を使わねばならない厚さを常に保持していた正会誌はともかく、薄いコピー誌の作成は実に楽になった。
あの眼鏡橋が邪魔でホッチキスが嫌いになりかけていたわたしも、フラットクリンチの登場によって無類のホッチキス好きに変化していた。
いや、正確に言えばホッチキス好きではなく、フラットクリンチ好き、だ。フラットクリンチにあらずんばホッチキスにあらず、という「フラットクリンチ至上主義」が心の中に芽生えてしまったのだ。
サークル内は無論のこと、大学で授業を共にする友人たちにも、フラットクリンチの素晴らしさや、眼鏡橋が如何に醜いか、書類を積んだときの「針のある部分だけが斜めに高くなっていく」あの嫌な感じがなくなる快感など──とにかく徹底的にフラットクリンチを褒め、それまでのホッチキスをくさした。
サークルメンバーは、わたしが製本作業で使用していたフラットクリンチを貸すと「こんな便利なホッチキスがあるのか」「ありがとう、本当にありがとう」と涙を流さんばかりに喜んでくれていた。
ただ、便利なのは判っているが、本体価格1,000円は当時の価値観で言えばけっこうな出費である。コピー誌作成の場面でフラットクリンチの台数が増えることはなかった。サークルとしてもメンバー個人としても、購入に至らなかったと記憶している。
HD-10Fはコピー用紙の貫通力が15枚で、100ページクラスの正会誌は無論、他のコピー誌でも30ページを超過した冊子には使用できない。サークル内での登場頻度が低いのも、普及に足を引っ張った。
いわんや、日常でホッチキスを使わない友人をや。
フラットクリンチ至上主義者と化していたわたしは、憤懣やるかたない表情で友人たちを見ていた──に違いない。
当時もし財力があれば、フラットクリンチを買ってサークルや友人たちに押しつけていただろう。バイトも碌にしない万年貧乏学生には、そこまではできなかったわけだが。
いかにも樹脂でござい、というカラーしかなかったフラットクリンチに、とつぜん透明モデル《フラットクリンチ・クリスタル》が出たのが、その翌年のことだった。
これも狂喜乱舞して購入し、使い込んだ記憶がある。
もちろん友人たちにも薦めまくったが、これまた誰も購入には至らなかった。
このモデルは後に、文房具専門月刊誌『B-TOOL(ビー・ツールマガジン)』誌上において開催された第1回ステーショナリー・オブ・ジ・イヤーにおいて、デザイン賞を受賞している。いま見ても美しく、改めて入手したいモデルである。
ただ、毎回同じようなオチで申し訳ないが、やっぱりこのフラットクリンチも、気づけば手元から消えていた。いつ、どこで手放してしまったのか。我ながら実に不思議だ。
先日、《フラットクリンチ・クリスタル》が「マニア垂涎の限定モデル」としてインターネットの某所で販売されているのを発見した。50万円の値がついていたが、わたしが知る限り買い取り手は現れなかったようである。
価格云々はさておき、フラットクリンチがホッチキスの歴史的転換点であったことに違いはない。ここから改良を重ね、21世紀にはパワーフラットやサクリフラット、バイモ11といった更なるエポックメイキングなホッチキスが生まれたのだから。
ありがとうフラットクリンチ。またいつかどこかで手に入れたいものだ──できれば、適正な価格で。
【後日譚】
フラットクリンチという名称は、ホッチキスの綴じ方そのものを言うわけですが、このフラットクリンチ1号機が出た段階では、このホッチキス本体そのものが「フラットクリンチ」と呼ばれるに相応しい存在だったんですよね。イラスト内で泉がああ言ってますけど、今でもついHD-10Fのことを「フラットクリンチ」と呼んでしまいます。
あと、この記事を「森市文具概論」に掲載したことによって、親切な読者さまからフラットクリンチ・クリスタルを譲っていただきました。本当にありがとうございました!
イラストでは黒ボディのHD-10Fをモデルにしていますが、本当はクリスタルで描きたかったのです。ただ、現物を入手してみて「透けたこいつを描くのは骨が折れたかもしれないなあ」と思ったのは偽らざる事実です。 -
1980年代は電子文具の時代でもありました。
こういうタイプの電子文具って今ホントにないですよね……。
初出:2018年5月18日
まだ、携帯電話のない時代の話である。
時代は1990年。
職場に配属になり、最初の仕事は、鳴っている電話をかたっぱしから取ることだった。
わたしは営業職で、内勤の業務担当者も別に数名いるのだが、彼女たちの仕事はFAXでやってくる注文の処理と、出荷のための品繰りが中心だった。かかってくる電話は注文ではなく、取引先の営業からの「営業担当者への仕事の依頼」なので、基本的に電話は在席している営業職が取ることになっていた。
21世紀も18年を経過した現在と異なり、電子メールなどというものは微塵もなく、電話機に相手の番号が表示されるナンバーディスプレイもない時代だ。連絡はすべて電話、その後の確認書類がFAXで流れてくる──あるいはFAXされた後に着信確認の電話がかかってくる、というのが通常のパターンだった。
とにかく毎日、電話を取り、相手先を確認し、その後担当者がいれば電話を取り次ぎ、いなければメモを担当者の机上に残す。
たったそれだけのことなのに、毎日が必死だったのを憶えている。
そして大抵、メモに電話を受けた日時を書き忘れて叱られていたものだ。
そんなわたしに、まるで福音のような電子文具が現れる。
その名は、タイムプリンタ。
セイコー電子工業(後のセイコーインスツル)の秘密兵器だ。
見た目は、デジタル表示のある卓上目覚まし時計という風情である。
中央に7セグメントLCDパネルがあり、ここに年、月、日、曜日、時、分、秒がデジタル表示される。
LCDパネルの周囲には4つのボタンが配置され、機能を切り替えることができる。
LCDパネルの下にある長いボタンが印字ボタンだ。
本製品は、LCDパネルに表示された時刻などの情報を、手軽に用紙に印字できる画期的な製品だった。
印字内容は大きく2つに分類できる。
ひとつは、日時を印刷するモード。年月日のみと、時刻まで入れるものを選択できる。
年月日の並びは、日本式(2018-05-14)、イギリス式(14-05-2018)、アメリカ式(05-14-2018)に変更可能だ。
そして、使用する内容によって日時のあとにコメントを入れるモード。5つの文字(RCVD、SENT、IN、OUT、CFMD)をつけることができる。
印字は活字式で、数字と特定のアルファベットや記号が1本のベルト状になって内蔵されており、小型インクロールを介して打刻される。用紙は専用である必要はなく、平らな机上に敷かれた用紙の位置を本体下部のガイドで確認しながら本体を設置する。
時計用の水晶振動子と印字用のセラミック振動子を切り替えて動作するツインクロック4bitCPUを内蔵している。内蔵モータは活字ベルトを輪列を介して回転させることと、それを任意の位置に止めて用紙に押圧する2つの機能に使用されており、その機能は電磁クラッチにより瞬時に切り替わる。ハンマの桁上げとキャリッジリターンの切り替えも、モータからの動力のみによって行われた。
インクは油性で、上質紙、コピー用紙、半紙、藁半紙、タイプ用紙など、多岐にわたる用紙への印字を考慮したものとなっている。
これを職場に置いて、電話が来たらまずは自分のノートにメモを書き、電話を切った後に職場で用意された裏紙メモ(コピーに失敗したA4用紙を、断裁機で4等分し目玉クリップで束ねたもの)に転記。
そしてタイムプリンタの文字設定を「RSVD」にして、おもむろにメモに載せる。
位置を確認して、印字ボタンを押すと──
バダダダダダダダダダダダダダダダダ!
結構な音量で、マシンガンよろしくタイムプリンタの印字機構が唸りをあげる。
で、持ち上げれば、日時の印字完了である。
これがけっこう耳障りな音で、よく隣の席の係長から「おめー、それちょっとうるせーぞ!」って突っ込まれたものだ。
でもまあ、すでにわたしは「でもほら、電話を受けた日時が正確に記録されるんですから、音くらいいいじゃないですか」と言えるくらいには成長していたので、係長もそれ以上は突っ込んで来なかった。微妙な顔はしていたけど。
ほぼ毎日、タイムプリンタは稼働していた。
来る日も来る日も、爆音を上げて時刻を打刻していた。
わたしはタイムプリンタの性能に大満足だった。
しかし意外だったのは、係長も、先輩も、同期も、決してタイムプリンタを「貸してほしい」と言ってこなかったことだ。
こんなに便利なのに、なぜだろう。
確かに、日時を正確に手書きできるひとには不要なものだったかもしれない。
でも、タイムカードに打刻するタイプは世の中に溢れているが、手元の用紙に自由に時刻を打刻できるマシンはこれ以外に見たことがない。今でもタイムプリンタがあったら、いろいろ便利に使えるだろうと思うのだ。
残念ながら当時のタイムプリンタは転勤に伴い紛失してしまったが、もし再度の入手が可能だったら、今度こそは周囲に「これぜったい便利なんで使ってみてくださいよ!」って勧めまくりたい。
そして、いっしょに「バダダダダダダダダダダダダダダダダ!」を楽しみたいものである。
【後日譚】
これ、個人的にはホント便利だったんですよ。超うるさかったですけど。
可動品、入手できないですかねえ。
もっかいあの轟音を響かせたいんですよ。
あと、画像資料は「ビー・ツール・マガジン」を参考にさせていただきましたが、それ以上に役立ったのが日本時計学会誌のこの記事です。まさか開発資料を目の当たりにすることができるなんて! -
1980年代の文房具は面白かったのです。
今回は思い出深いルーズリーフについて。
初出:2018年4月20日
いつ、どこで、どうやってルーズリーフと出会ったのか、まったく憶えていない。
どのブランドの、どのルーズリーフと、どのバインダーから使うようになったのか。記録もないし、当時のものも残っていないので、まったくもって定かではない。
だが、中学ではいつの間にか、ノートの代わりにルーズリーフで授業を受けていた。
タイムスケールを1980年に巻き戻そう。
授業別にノートを分ける必要がない。
ノートの切り替え時期に悩む必要がない。
必要があればいくらでもページを足すことができる。
罫の混在も容易だ。
使う予定だった授業のノートを忘れる、という失態も防ぐことができる。
ルーズリーフは「便利の塊」だった。
バインダーには授業で書くためのルーズリーフ以外に、わたしにとって必須だったものがふたつ挟まっていた。
ひとつは、現在でも発売されているマルマンのポケットリーフ。紙を折り曲げてポケットにした単純なアクセサリだが、驚くほどに便利な代物である。
もうひとつは、現在はない──同じくマルマンのルーズリーフディクショナリーだ。
「英和編」は1978年、三省堂・編。
「新クラウン英単語熟語帳」(三省堂)に多少の手を加えて英和辞典としての体裁を整えたもので、英文読解の際必要にして充分な精選6,700語、熟語1,000、用例3,700をB5サイズに凝縮している。
前置詞、接続詞、関係代名詞、関係副詞などはそれぞれの対訳に対する用例を別掲載し、重要不規則動詞集を巻末に附録としてつけている。
全64ページ(リーフ32枚)で定価300円だ。
「和英編」は1979年、三省堂・編。
「新クラウン和英単語帳」(三省堂)をルーズリーフスタイルにしたもので、見出し語12,000、例文2,000をB5サイズに凝縮している。不規則動詞変化表は「和英編」にも附属しているが、同じ表ではない(「和英編」の法が語数が少ない)。
全64ページ(リーフ32枚)で定価300円である。
高校生の英語学習に向けて作られたものではあるが、中学生から大学生、社会人に至るまで幅広く使用できると、三省堂編纂局は本製品の冒頭で述べている。
つまり、両者とも、中学校の授業で習う英語で使う分には不足がないということだ。
1980年──中学一年生だったわたしは、この両者を購入した。
わたしは小学校5年生から英語と英会話の塾に通わされていたが、正直に言って英語は大の苦手だった。
常に辞書を引かないと意味は判らないし、ヒアリングはまるっきりお手上げ状態。
2年先行して学習したにも関わらず、中学に上がってからの英語学習は容易ではなく、やはり辞書と首っ引きの状態に変わりはなかった。
中学では入学時に、教科書といっしょに辞書を買わされた記憶がある。ただ、それがどんな辞書だったのか思い出せない。わたしのメイン辞書はその買わされた分厚くて引きにくい辞書ではなく、ルーズリーフディクショナリーだったのだ。
マークをしたいと思っても、辞書に直接書き込むのは気が引けるものだ。
今と異なり、まだその頃ポスト・イットは発明されていない。
授業で辞書を引く、あるいは予習で辞書を引く際、辞書に付箋を挟むという行為は、当時わたしの知識には存在しなかった。
だが、ルーズリーフディクショナリーは違う。
辞書に較べ安価で、下方にはメモ欄もある。6ミリ罫7行ではあるが、メモには充分なスペースだ。
紙質も辞書と言うよりは筆記用のルーズリーフに近く、シャープペンシルで書くのに適していた。蛍光ペンや蛍光ボールペンでアンダーラインを引くのにも抵抗がない。
これは「マイ辞書」なのだ。
自分で書き込んで拡充していく、自分だけの辞書なのだ。
気づけばクラスの半数以上がルーズリーフを使用するようになり、みなバインダー表紙にシールを貼ったり中紙を代えたりと、競うようにカスタマイズを楽しんでいた。小学校でキャラクターものを禁止されていた反動なのか、それともひとと違った物を持ちたいと思う背伸びした意識だったのか──。
ルーズリーフのシェアも流行し、リーフもA罫やB罫だけでなく、方眼罫や無地(罫の引かれた下敷きを引いて使う)、またピンクやブルー、バイオレットといったカラーリーフも登場して百花繚乱の時代へと突入する。
ただ、ルーズリーフディクショナリーを購入し装備しているのはわたしだけだった。それがとても意外で、薦めても「へえ……」的リアクションしかなかったのが残念といえば残念だった。使えばぜったい便利なのに!
その後、授業の友だったルーズリーフディクショナリーは大学受験まで活躍してくれた。入学後、大学で英字新聞を読む授業にぶち当たるまでは。さすがのルーズリーフディクショナリーも、The Japan Timesを読み解くには力不足だったのだ。
ありがとうルーズリーフディクショナリー。わたしはきみを忘れない。学習の友よ、本当にありがとう。
【後日譚】
平成の世になっても、そして令和の世になっても、未だに文房具店での発見例があるルーズリーフディクショナリー。
気づけば手許に3冊集まっていました。
みなさまも、古いルーズリーフの棚があったら、ちょっと下の方で積まれたままになっている袋を引っ張り出してみてください。意外と見つかるものですよ。
あ、あと、イラスト内で訊いているメタル製の薄っぺらい金具のバインダー、いまでも情報を募集しております。ご存知の方、教えてください!
【追記】2021.04.10
なんと、バインダーの正体が判りました!
追加エントリーはこちら!
求め求めてやまぬロマン憧れの薄型金属綴じ具リーズルーフバインダー、その顛末。 -
1980年代の失われた技術を見直す文房具ブログ。
まだまだ見捨てたもんじゃないですよ、カード文具も。
初出:2018年4月6日
公衆電話に使用するプリペイドカードであるテレホンカードが登場したのが、1982年。
厚さ1ミリを切る本当のカード電卓「SL-800」がカシオ計算機から発売になったのが、1983年のことだ。
国鉄(まだこの頃、JRは「日本国有鉄道」だった)が切符を購入するためのプリペイドカード、オレンジカードを関東圏で発売したのが、1985年だった。
そして──1986年。
「カードの時代」の流れに乗り、カード文具と呼ばれるジャンルの元祖的存在が誕生した。
ゼブラの「カーディ」である。
カーディを手にした時、たいへん興奮したことを覚えている。
まず、薄い。3ミリ弱の厚みで、財布や定期入れに忍ばせる使い方ならまったく問題ない。
そして、薄い割には硬く、かっちりとした作りになっている。しなりもしないし、多少ひねったくらいでは割れる心配もない。
そのカードサイズのボディに、ボールペンとシャープペンシルが並んで収まっている。
ボールペンは0.7ミリの油性である。初期型は芯を替えることができず、使い捨てだった。シャープペンシルは一般的な0.5ミリのもので、カード側に替芯ケースが内蔵されていた。
当時のメイン筆記具はシャープペンシルだったので、わたしにとってシャープ芯ケースは大変嬉しい仕様だった。ボールペンは最終的にインクを使い切ることはなかったので、レフィル式でなくとも問題はなかった。
薄いボディは決して持ちやすいものではなかったが、手帳用と呼ばれる極細軸の鉛筆やペンが苦手だったわたしには、カーディのほうが10倍馴染みやすかった。
1986年──大学に進学し、静岡県三島市ではじめて一人暮らしを経験したわたしは、実家や友人たちとの連絡手段として公衆電話を多用していた。
住んでいた寮は、個室に電話を引くことができなかった。寮の玄関に設置された共用の電話は10円玉と100円玉を使用するタイプだったが、実家への長距離電話のために小銭を積むのは面倒で、しかも使用中は他の寮生にかかってくる電話を遮ることになって大変迷惑でもあった。
結果として、わたしから電話をかけるとき、あるいはかかってきた電話が長引きそうな時は、寮を出て1分ほどのところにある公衆電話ボックスに向かうことになる。
だが往々にして、テレホンカードと電話番号簿の載った学生手帳だけを持って飛び出してしまい、いざというときペンがないという失態を繰り返していた。わたしの学生手帳には、手帳用鉛筆はついていなかった。
カーディは、この「ペン不携帯」という絶望状態をカバーする、画期的な製品だったのだ。
当時は大学の友人よりも、地元のラジオ局の番組にハガキを投稿するリスナー仲間とのつき合いが多かった。
ローカルとはいえ、小学生から社会人まで幅広く聴かれていた人気番組だった。その頃、ラジオリスナーの間ではわたしもそれなりの投稿常連として名が憶えられるようになり、番組の公開録音や番組主催のソフトボール大会に出たりと、「ネットがない時代のオフ会」みたいな催しに何度も参加させていただいていた。
ほぼ手ぶらに近い状態で出かけるのが常だった当時のわたしだが、学生手帳にテレホンカードとカーディを忍ばせる癖だけはついていた。
カーディによって助けられた経験は、一度や二度ではない。自分の書きたい欲も救ってくれるが、周囲の受けもよかった。公開録音の際、リスナーの女性と電話番号のやりとりをするため取り出したカーディは、彼女の目を見開かせるに充分な威力を持っていた。
わたしの通う大学は、二年生になると学生は本校舎である東京に移転することになっていた。
東京に移り、わたしはシステム手帳を本格導入する。導入後は、テレホンカードとカーディの定位置は生徒手帳からシステム手帳のカードホルダに移っていった。
東京の寮もまた呼び出し式の黒電話だけだった。わたしが彼女に電話をするときは、テレホンカードとカーディの入ったシステム手帳を持ち出し、やっぱり夜の公衆電話ボックスに向かうのだ。
システム手帳にはペンホルダがあったから、カーディの出番は次第に減っていった。だが、それでもいざというとき頼りになるのが本製品だ。ペンホルダにつけていたシャープペンシルの芯がなくなったとき、普段持ち歩かない油性ボールペンをどうしても使用しないといけないとき──縁の下の力持ちとして、カーディは常に側にいてくれた。
システム手帳、テレホンカード、カーディ。この組み合わせは、わたしが1994年に東京デジタルホンの携帯電話を入手するまで続いた。
そして携帯電話の導入と同時に、テレホンカードの使用量は激減する。
その時期からシステム手帳をA5判6穴に切り替えたわたしは、別に複数のペンを持ち歩くようになっていく。ペンホルダにあるだけでなく、多種多様なペンがつねにポケットに、鞄に、机上にある生活が始まっていた。
気づけば、テレホンカードと共にカーディも姿をくらましていた。
彼女の電話番号をメモしたペンも、紙も、すべて消えていった。気づかぬうちに。これといった理由もなく。
だから、カーディの思い出はちょっとほろ苦い。
2018年3月発売の「ペモアイディー」は、カーディをベースとした薄型ボールペンが2本内蔵されたIDカードホルダだ。まさか30年もの時を超えて、ふたたびあの薄っぺらいボールペンに出逢うことができるとは思ってもいなかった。
この機会にぜひ、皆様にも「筆記具が常に寄り添っている状態」を堪能していただきたい。ペモアイディーなら付箋紙を内蔵しているので、咄嗟に書く紙にも困らない。ちょっと握りづらいけど、実用的な製品である。
そしてわたしはひとり、ペモアイディーの薄っぺらいボールペンを握り、ほろ苦い青春時代を思い出すのだ。
【後日譚】
iPadPro+クリスタのデジタルイラストにも慣れて、けっこう活き活きとした絵が描けていますね。一枚目の泉はかなりお気に入りです。二枚目と等身がバラバラなのが気になりますが……。
また、イラストも「実物がある場合は写真を撮って下絵にする」方法を取っているのですが、手書きの線を失いたくなかったので、「写真をなぞって描く(写真レイヤーに上に描画レイヤーを敷いてハンドトレスする)」場合も、ブレを躊躇しないで「正確さよりも漫画的なダイナミズム」を重視しています。
カーディはメインの筆記具にはなりえない製品ですが、常に寄り添う「懐刀」としてたいへん重宝した存在でした。とにかく身につけていたかったんですよね、筆記具と紙を。「ウェアラブルステーショナリー」としての紙のシステムは、本連載ではついに語ることができなかった(まがりんぼーるの回で5×3カードについて簡単に触れているだけですね)のが悔やまれます。
ああ、もっと書きたかったなあ。