というわけで、今日から一話ずつ再録していきたいと思います。
まずは記念すべき連載第1回。
初出:2017年7月3日
まず、「デミタス」が登場する。
市販のホッチキス針No.10は50本でひとつの塊になっている。発売当時、デミタスはこの50本の針を内蔵する、世界最小のホッチキスだった。
デミタスは優秀なホッチキスだった。携帯性に優れ、実用も問題がない。そしてかわいい。デミタスは注目され、若い女性を中心によく売れていた。
次にプラスは、このデミタスを中心とした「OLが持っても恥ずかしくない実用文房具セット」を考案する。
デミタスを中心としたチームなので、本商品は「チームデミ」と呼称された。
このチームデミは、デミタスを上回る大ヒットとなった。
わたしがこの製品を初めて見たのは、大学があった静岡県三島市の文房具店である。
店の外から見える窓越しのチームデミは、明るい赤色をしていた。
スポンジに填まり、整然と並ぶちいさくてかわいらしい文房具たち。しかしそのどれもが「実用品でござい」という顔をして、使ってくれ使ってくれとせがんでいる。
欲しい。猛烈に欲しい。
だが、まだアルバイトも始めていなかった大学一年生には、2,800円(まだ消費税は導入されていなかった)という価格は全くもって手の出ない価格帯だった。
わたしは購入を諦めた。
後日、わたしは地元ラジオ番組へのはがき投稿の景品として、念願の赤いチームデミを手に入れることになる。
製品が発売されたのが1984年、わたしがラジオ番組からチームデミを入手したのが1986年。
わずか2年でチームデミは、地方ラジオ局の名入れ景品に登場していたのだ。
時代はバブル需要に入ろうとするころ──平成景気は1986年12月から始まったとされている──である。以降、バブルが崩壊するまで、チームデミは様々な局面で贈り物や景品に使用された。
そして雨後の筍のように類似品と模造品が市場に溢れ、一時期のディスカウントショップにはセット文具コーナーが生まれるほどの活況を呈することになる。
当時、チームデミに不満がなかったわけではない。
そもそも大きさのわりに分厚い。重くはないが、持ち歩くにはケースに厚みがありすぎる。
それとこれはわたしの貧乏性から来ているのだが、消耗してしまうカッター、メンディングテープ、液体のりがなくなったら補充交換できないので、どうしても使用をけちってしまうのだ。
そんなチームデミが産み出した「小さなモノを持ち歩く」文化は、ミドリの「XSシリーズ」ステーショナリーキットに色濃く残されている
文房具は手許にあって、はじめて真価を発揮する。その際、セット文具は知的生産のレスキューツールとなりうる存在である。デッドウエイトにならない範囲で持ち歩きたいものである。
【後日譚】
第1回はチームデミ、最終回はファクトリーで行こうと決めて始めた連載でした。
そのくらい、当時のわたしはチームデミが好きでしたし、ファクトリーは肌身離さず持ち歩いていました。
1986年はわたしにとって、まさにプラスイヤーでした。それはわたしがチームデミを手に入れた年であり、同時にファクトリーが発売された年でもあります。
それまで筆記具(と言ってもシャープペンシルが主流でしたが)やノート、ルーズリーフはそれなりに選んで使っていたわたしでしたが、それ以外の机上文具には無頓着でした。
しかしプラスというメーカーに出会い、わたしは急激に開眼していきます。いろいろなものが急に見えるようになったのです。バインダーも、クリップボードも、はさみも、デスクスタンドも、プラスの製品で統一されていきました。
1988年にAir-inが登場し、愛用の消しゴムですらプラスの製品になってしまうほどです。
ちょうど、わたしは大学生でした。東京での3年間(東京の本校舎に来たのが2年生からだったので)、わたしの文房具ライフの中心は間違いなくプラスの製品群だったのです。
まずは記念すべき連載第1回。
初出:2017年7月3日
まず、「デミタス」が登場する。
市販のホッチキス針No.10は50本でひとつの塊になっている。発売当時、デミタスはこの50本の針を内蔵する、世界最小のホッチキスだった。
デミタスは優秀なホッチキスだった。携帯性に優れ、実用も問題がない。そしてかわいい。デミタスは注目され、若い女性を中心によく売れていた。
次にプラスは、このデミタスを中心とした「OLが持っても恥ずかしくない実用文房具セット」を考案する。
デミタスを中心としたチームなので、本商品は「チームデミ」と呼称された。
このチームデミは、デミタスを上回る大ヒットとなった。
わたしがこの製品を初めて見たのは、大学があった静岡県三島市の文房具店である。
店の外から見える窓越しのチームデミは、明るい赤色をしていた。
スポンジに填まり、整然と並ぶちいさくてかわいらしい文房具たち。しかしそのどれもが「実用品でござい」という顔をして、使ってくれ使ってくれとせがんでいる。
欲しい。猛烈に欲しい。
だが、まだアルバイトも始めていなかった大学一年生には、2,800円(まだ消費税は導入されていなかった)という価格は全くもって手の出ない価格帯だった。
わたしは購入を諦めた。
後日、わたしは地元ラジオ番組へのはがき投稿の景品として、念願の赤いチームデミを手に入れることになる。
製品が発売されたのが1984年、わたしがラジオ番組からチームデミを入手したのが1986年。
わずか2年でチームデミは、地方ラジオ局の名入れ景品に登場していたのだ。
時代はバブル需要に入ろうとするころ──平成景気は1986年12月から始まったとされている──である。以降、バブルが崩壊するまで、チームデミは様々な局面で贈り物や景品に使用された。
そして雨後の筍のように類似品と模造品が市場に溢れ、一時期のディスカウントショップにはセット文具コーナーが生まれるほどの活況を呈することになる。
当時、チームデミに不満がなかったわけではない。
そもそも大きさのわりに分厚い。重くはないが、持ち歩くにはケースに厚みがありすぎる。
それとこれはわたしの貧乏性から来ているのだが、消耗してしまうカッター、メンディングテープ、液体のりがなくなったら補充交換できないので、どうしても使用をけちってしまうのだ。
そんなチームデミが産み出した「小さなモノを持ち歩く」文化は、ミドリの「XSシリーズ」ステーショナリーキットに色濃く残されている
文房具は手許にあって、はじめて真価を発揮する。その際、セット文具は知的生産のレスキューツールとなりうる存在である。デッドウエイトにならない範囲で持ち歩きたいものである。
【後日譚】
第1回はチームデミ、最終回はファクトリーで行こうと決めて始めた連載でした。
そのくらい、当時のわたしはチームデミが好きでしたし、ファクトリーは肌身離さず持ち歩いていました。
1986年はわたしにとって、まさにプラスイヤーでした。それはわたしがチームデミを手に入れた年であり、同時にファクトリーが発売された年でもあります。
それまで筆記具(と言ってもシャープペンシルが主流でしたが)やノート、ルーズリーフはそれなりに選んで使っていたわたしでしたが、それ以外の机上文具には無頓着でした。
しかしプラスというメーカーに出会い、わたしは急激に開眼していきます。いろいろなものが急に見えるようになったのです。バインダーも、クリップボードも、はさみも、デスクスタンドも、プラスの製品で統一されていきました。
1988年にAir-inが登場し、愛用の消しゴムですらプラスの製品になってしまうほどです。
ちょうど、わたしは大学生でした。東京での3年間(東京の本校舎に来たのが2年生からだったので)、わたしの文房具ライフの中心は間違いなくプラスの製品群だったのです。
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