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1980年代の文房具を懐かしく思い出すエッセイ。
そう、わたしの青春時代は「ノートはコクヨ、シャープ芯は三菱」だったのです。
初出:2017年12月15日
かっこいい、とは何だろう。
かっこよさは、時代とともに流れゆくものだ。
1980年代には1980年代のかっこよさがあったのだ。
80年代は様々なものが革新的に、また飛躍的に進化し、目の前に次々に現れる時代だった。
例えば、映画『スター・ウォーズ』(1977)から始まったSFブームはその後洋画だけでなく邦画、アニメ、テレビ番組の様々な場面に拡がって行き、また小説、漫画といった従来からあったSF作品も80年代になって改めて目が向けられるようになっていく。
映像にも革新がもたらされた。コンピュータ・グラフィックスが単なる想像上のものではなく、映像としてわたしたちの目の前に現れ出したのもこの頃だ。映画『トロン』(1982)はSFとコンピュータ・グラフィックスの融合体として登場し、観客を驚かせた。
また、アメリカとソ連──いまのひとにはソビエト連邦について説明が必要かもしれないが、とにかく80年代は世界の二大超大国が軍事力を背景に緊張を強いられていた時代でもあった。何かあったら戦争は即核兵器の応酬となる、そんな時代を「冷戦の時代」と呼んだが、わたしたち男子高校生はそういった戦争のニオイをミリタリー兵器へのかっこよさにすり替え、戦争ではなく戦闘兵器、メカニックとしての軍事技術に感心を持ったりした時代でもあった。
SF、戦争、メカものとくると、輸入先はたいていアメリカである。英語がかっこいいと思い込んでいる80年代の男の子は、ことのほか英単語を好み、なにかにつけ名称に英語、あるいは英語っぽい名前をつけたがる。
その中でも、この当時かっこいいと思われていたのが、いわゆる英語の略称──イニシャリズムやアクロニムだ。
ニュースでも、よくイニシャリズムやアクロニムを聞くことができた。
ICBM(アイ・シー・ビー・エム:Inter-Continental Ballistic Missile 大陸間弾道弾)
SLBM(エス・エル・ビー・エム:Submarine-Launched Ballistic Missile 潜水艦発射弾道弾)
NATO(ネイトゥ:North Atrantic Treaty Organization 北大西洋条約機構)
START(スタート:Strategic Arms Reduction Talks 戦略兵器削減交渉)
わたしはSF的な漫画を描いていたので、出てくる組織の名前やメカニックシステムをこうしたイニシャリズムやアクロニムで作るのが好きで、いくつも適当な造語を作っていた記憶がある。
特に、アルファベット4文字は格別に美しい。当時は本気でそう思っていた。
だから、いつも使っている三菱uni芯の高級版が出たとき、その名にうっとりとしたのだ。
新しいシャープ芯の名は、GRCT。
正式な名称としては「Hi-uni芯」なのだが、パッケージを見る限り、本製品はどう見ても「GRCT」と言う名の製品だ。
40本入り300円。
今までのユニ芯が40本入り200円だったので、これはかなり高級である。
引き締まった黒のボディ。覗き窓を覆う銀色のグリッドは、どこか『トロン』を連想させる未来的デザイン。
ど真ん中のGRCTロゴは、印刷ではなくシールだ。
パッケージには「GRCTとは何か」は書かれていない。
一番大きな文字が、GRCT。
次がやや控えめに、Hi-uni。
そしてもっと小さい文字で、英文が記載されている。
PRESSURE-PROOFED HI-DENSITY LEADS
しかし、これも「GRCTとは何か」には答えていない。
この英文は、JISマークが印刷されていた時代のuni鉛筆にも書かれているものだ。
GRCTとは関係がない。
GRCTって何だ。
もしかしたら、店頭販売の什器には書いてあったのかもしれない。わたしが気づかなかっただけなのかもしれない。
その後、わたしがGRCTの意味を知ったのは、しばらくして三菱鉛筆のCMをテレビで見てのことだ。
ラジオ番組『ジェットストリーム』や洋画吹替、また各種ナレーションでお馴染みの城達也が、そこでは渋めの声でこう告げていたのだ。
「ジー・アール・シー・ティー──グラファイト・リーインフォースド・カーボン・テクノロジーの成果。芯はまた強くなった」
Graphite(黒鉛)!
Reinforced(強化)!
Carbon(炭素)!
Technology(技術)!
めっちゃかっこいい!
城達也も言ってたよ! 「GRCTの驚異」って! 驚異的なかっこよさだ!
中学の頃からシャープ芯はuni芯一辺倒で、使い潰した芯の本数は枚挙に暇がない。そして高校時代になって現れた高級シャープ芯Hi-uni芯が、ここからわたしのスタンダードとなって授業に、受験に、そして漫画に消費されていく。より折れにくくなったことは事実だったが、それより「もう中坊ではない」というか、高級な芯を使うことにより少しずつ大人に近づいている背伸び感も心地よかったのだろうと思う。
通う高校の周囲には文房具店がなく、校内の購買にあったのは普通のuni芯だった。わたしは密かに鼻を高くした。もっともおおっぴらに鼻を高くしたところで、周囲に理解者はいなかったわけだが。
21世紀の今のシャープ芯は、この当時の高級芯の性能を凌駕しているだろうと思う。濃さも、強さも、おそらく段違いの製品に仕上がっている。
だから、あえてこういった古い芯を探して使わなくとも、各社がしのぎを削って進化させた現在の芯を使った方が、より濃く、なめらかで折れにくいのは間違いない。
ただ、やはり「その製品を選ぶ決定的な部分はどこか」となると、書き味プラスもうひとつ──「選んで買うほどのインパクト」も重要なのではないか。21世紀のナウなヤングにはもう「グラファイト・リーインフォースド・カーボン・テクノロジー!」と言っても衝撃はないかもしれない。そういう尖った部分ではなく、もっと心の内側に暖かく優しく拡がるもののほうが受けがいいのかもしれない。
それでも、やっぱりかっこいいぞGRCT!
【後日譚】
そう、やっぱり英単語の4文字短縮形ってかっこいいのです。
あと、いなかの中高生は文房具に凝ると言っても結局は消耗品であるシャープ芯、消しゴム、ノート以外はそうそう買い換えることもできないし、選択肢も少なかったんですよね。
この連載では取り上げていませんが、わたしの消しゴムは基本的に(株)ホシヤのkeep。これは静岡県民のソウル消しゴムですから論を俟たないのですが、ノートはコクヨのキャンパス二代目(これは第18回で取り上げています)、シャープ芯は三菱で決め打ちだったんですね。
GRCTの前の三菱の芯は、硬質な透明プラのケースで、上半分に黒い樹脂パーツが填まっていて、蓋とロゴ部分がこの黒色樹脂だったんですね。使用後、この黒色樹脂を外して遊んだ記憶があります。遊ぶ、と言ってもただ外したり着けたりするだけなのですが。
ただ、このGRCTパッケージになってからはそれができなくなりました。だからといって旧タイプと同じケースで出たGRCTIIに乗り換えたかというとそんなこともなく、「やっぱり200円の芯より300円に芯の方がかっこいいよな!」と思って継続使用しておりました。
200円と300円、明確な書き心地の違いなどなかったような気もするのですが、やっぱり高い方が高性能っぽいですよね。
そして大学に入学し、田舎にはなかったバラエティに富む各社の文房具を目の当たりにしてわたしの文房具マニア能力は急激に開花していきます。替芯も三菱一辺倒から、ぺんてるのハイポリマー100に移行しております。ごめんねGRCT。 -
1980年代の幻の文房具を語る大河ロマン。
とにかく何でもカードサイズだった時代の回顧録。
初出:2017年12月1日
必要は発明の母、とはよく聴くフレーズである。
だが、わたしにとって必要は「発見の母」である。
発明するほどの知恵はないが、けっこう鼻は効くのだ。
大学に入り、はじめて独り暮らしを経験した。
一年生のときにいた三島市でも、二年生以降に移った東京でも寮だったので、衣食住のうち「食」と「住」に関して心配はなかった。
大学生になってもっとも困難を憶えたのは、「衣」の問題だった。
服を買うこと自体は、店に慣れればどうということもない。日常の洗濯も、これまた慣れの問題だ。
最高に困ったのは、衣服の修繕──ボタンが取れたり、ちょっとほつれたり、といった日常のケアの問題だ。
小学校で裁縫は習った。
まったくできないわけではない。
ボタンが取れたくらいなら、自分で直したいと思う。
でも、自室に裁縫セットを常備するほどの頻度でもない。
むしろ、あれはレスキューツールで、外で使う小型のものがあれば充分だった。
掌に収まるようなコンパクトなものを三島のヤオハンで購入し、うちに置いていてもあまり意味がないと考え、鞄に入れて持ち歩くようにしていた。
だが、やはりわたしはわたしだった。
元来、忘れっぽい性質である。ものも簡単になくしてしまう。
ころりと丸いハンディの裁縫セットは、使われないままいつしか紛失の憂き目に遭っていた。
いざ欲しい! という瞬間に、あいつは側にいないのである。
ちょうどその頃、システム手帳のブームが起きて、文房具業界に新たな製品群が生まれた。
カード型文具、と後に呼ばれるものだ。
だいたいクレジットカード程度の大きさの板状で、ものによって厚みは異なるが、システム手帳のリフィルのひとつ「カードホルダー」に収まるように設計されているのが特徴だ。
バイブルサイズだと、縦に3枚、カードが収まる。
クレジットカード、会員カード、名刺、診察券──カード状のものなら何でもここに収納できるが、カード型文具の登場により、薄型小型になった文房具も収納できるようになった。
この製品群の登場により、わたしの夢がまたひとつ叶うことになる。
すべての情報をシステム手帳に。
そして、すべての生活をシステム手帳に。
この流れで、わたしが本当に欲しいと思った製品が誕生した。
ALLEXの「プレイトン」である。
中心に小型はさみを備え、その左右に安全ピン、まち針、縫い針、縫い糸2種、そして袖用の小型予備ボタンを内蔵した、カード型の裁縫セットである。
これを発見したときは、ちょっと小躍りしたことを憶えている。まさに「我が意を得たり!」の瞬間だった。
そしてプレイトンを得て、わたしのシステム手帳はパーフェクトなものとなった。
これ一冊で生活できる。忘れっぽいわたしでも、ここに必要なものが集約されていれば、使えば必ずもとに戻すし、なくすこともない。これさえ持ち歩けば、困ることはなにもないのだ──と、当時は本気でそう思っていた。
ペンがある。メモがある。スケジュールがある。地図がある。路線図がある。定規もある、電卓もある、カッターもある、切手もある、非常用のお札もある。クレジットカードは持っていなかったけど、テレホンカードとオレンジカードも入っている。
中でもプレイトンは、いざという時本当に役に立つカード型文具だった。
大学で同級の女子たちからも、これだけは「いいな! 欲しい!」と言われたものだ。飲み会で披露したらテーブルの端から端まで回覧され、彼女たちは輝く目で勝手にはさみを取り出したり糸を繰り出したりしていた。その様を、酔っていたせいもあって実に誇らしい気分で見ていたことを思い出す。
日頃、わたしの分厚いシステム手帳そのものは、彼女たちからは理解できない異質なものとして、ちょっと引かれていたのだが。
ここで「ちょっと待った!」という気持ちになった読者もいるかもしれない。
プレイトンはカード型裁縫セットではあるが、カード型「文具」ではないのではないか? と。
その気持ちはよく分かる。
この連載でプレイトンを取り上げた理由は、ふたつある。
ひとつは、本製品が文房具店の店頭でも取り扱われ、当時のわたしがまさしく「カード文具だ!」と認識して文房具店で購入し、使用していた点。
もうひとつは、ALLEXというブランドが、事務用ハサミで著名な林刃物株式会社のものだという点。わたしとしては「ALLEXのはさみが入っているなら安心できる」し、紙でも綺麗に切ることのできるプレイトンの小型はさみは、文房具としてもたびたびわたしを助けてくれたからだ。
ボタンが取れそうになったのをつけ直したい。
服から糸が飛び出しているのを切りたい。
プレイトンを使う機会はだいたいそのふたつだったが、それ以外にも「切りにくい袋やビニールパッケージの切り口を作りたい」とき、刃物を持ち歩かないことが多かったわたしにとって、プレイトンのはさみはレスキューツールであり、文房具そのものだった。
ただ、今から考えると、紙を切ってはいけないはさみだったのかも、とは思う。
それで切れ味が鈍っても、まったくもって自己責任である。
はさみだけの別売りがなかったのだから、もっと大切に扱うべきだろう。二十歳そこそこの自分を叱りつけたい気分である。
あと、何度考えても解せないのは、入っている縫い糸の色が黒と赤の2色だったことだ。
赤い糸ってそんなに頻繁に使うだろうか。
黒以外の糸が白とか紺とかグレーとかなら理解できるのだが、赤い糸を使うほど80年代のひとは赤い服を着ていたのだろうか。
個人的には「かっこいいから」入っていたんだろうと推測しているのだが、真相は闇の中である。
【後日譚】
2017年10月7日(土曜日)。わたしは岐阜県関市にいました。
記念すべき第50回「関の刃物祭り」を見に行ったのです。
そこでわたしは林刃物さんを訪れ、車内見学をさせていただきました。
その際に、会議室の展示にあったこのプレイトンを見て、今回の記事を思いついたのです。
本連載では現物を失っている例が多く、プレイトンもここで出会わなければネタにすることができなかったでしょう。
これを出逢いと言わず何と言えばいいのか!
何でもカードになった時代ではありますが、しかしプレイトンのデザインは現代でもまったく問題なく通用しますよね。また来ないかなあ、カード文具時代。
蛇足ながら、この回から泉の「目の描き方」が変わりました。だから何だ、って感じですが、少しずつでも進化というか「よくしよう」という努力をしてたんだなあ、と今さらながらに感心します。自分のことながら。 -
1980年代は手許に未来がやってきた時代でもあります。
今のみなさんに「フロッピーは文房具だった」と言って通じますでしょうか。
初出:2017年11月17日
なぜそこまで頑迷に防護せねばならなかったのか。
それはデジタルに「儚さ」を感じていたからである。
大学に入って、ワープロを購入した。
富士通のOASYS Lite-K FD20という機種だ。
1986年9月のことだった。
ワープロという名の機械は、2017年の現在もうどこのメーカーも発売していない。
その機能は完全にパソコンに吸収されたと言っていい。
入力専用機としてのポメラはあるが、わたしがここで言う「ワープロ」は狭義の「日本語入力/出力機」のことで、出力とはプリントアウトを指す。
家庭用ワープロが発売された当初、内部メモリに残された入力情報をデータとして外部保存する手段は、すべての機種に装備されていたわけではない。プリントアウトが唯一の出力方法だったものも多かった。
その後、フロッピーディスクドライブを外づけできる機種や、ドライブを内蔵する機種が各社から発売された。
わたしがはじめて買ったワープロは、そのドライブを内蔵した最初期のものだ。
そもそも、フロッピーディスクとは何か。
コンピュータのデータを磁気媒体によって記録あるいは読み出す際に使用される、取り外し可能な樹脂製の円盤のことである。
フロッピーとは「ふにゃふにゃしている」という意味。フロッピーディスクはその名の通り、薄いぺらっぺらの円盤である。最初期に出現した8インチディスクや、その後主流となった5.25インチディスクは封筒のような薄い樹脂製の保護ケースに入っており、持ったときにその柔らかさを実感できたものである。アクセスのための窓からディスクの磁気面が剥き出しだったので、埃に弱い構造でもあった。
80年代初頭より普及していった国産パーソナルコンピュータにおけるデスクトップ筐体には、多く5.25インチディスクが採用されていた。だが80年代半ばより普及し始めた家庭用ワープロは、最初から小型の3.5インチディスクが採用されていた。
ソニーによって開発された3.5インチディスクは、硬いプラスチックのボディと磁気面を守るスライドシャッターが搭載されていた。5.25インチディスクは磁気面が剥き出しだったが、それが3.5インチではシャッターによってそれが守られるようになったのだ。
推理SF研究会に入会し、小説を書くようになったわたしは、書いたデータをせっせとフロッピーディスクに保存していた。
ワープロ各社でフォーマットが異なるため、保存されたデータはそのメーカーのワープロでないと読み出すことはできない。ワープロ本体で専用フォーマットを施し、それからデータを書き込んでいく。
ただ、専用フォーマットと言いつつも、しょせんはテキストである。さほどデータを食うわけでもない。当時普及していた2DDタイプでは容量は1枚当たり720KBしかないが、それでもカタログスペックで約23万文字──小説なら文庫の1冊や2冊、余裕で格納できるものだった。
長編小説、短編小説、エッセイやシステム手帳用フォーマットなど、分類して保管してはいたが、大学生でサークルに参加していた3年間で書いた作品でも、フロッピーディスクが5枚を超えることはなかった。
磁気媒体である以上、何か問題があればデータを読み出すことができなくなる。
ディスクはここにあるものがオリジナルで、バックアップはない。
わたしが買ったそのワープロには、フロッピーディスクをバックアップできる機能がなかったのだ。
内蔵メモリに入ったデータをフロッピーディスクに保存ことはできる。
フロッピーディスクに入ったデータを呼び出すこともできる。
ただ、それは内蔵メモリ7,200文字分に限っての話だ。
OASYS Lite-K FD20は、7,200文字までしか文字を綴ることができない。それ以上はフロッピーディスクに分割して保存せねばならない機種だった。
わたしの小説は会誌に連載する形式だったので、この上限に掛かることなく書くことができた。長いエピソードは章を分けることで対処した。
だが、フロッピーディスクに保存されたデータは、各章ごとでないとワープロに読み込むことはできない。フロッピーディスク1枚分のデータをまるまる読み込むことができないし、ドライブがひとつしかないこのワープロでは、ディスクのコピーができないのだ。
もちろん、ひとつひとつデータを読み込み、ディスクを代えて別のディスクに書き込む──という作業は可能である。しかしながら、それはあまりに面倒くさいし、わたしの性格上どちらが最新のディスクなのかを間違えるに決まっているので、躊躇せざるを得なかった。
つまり、結果として、ここにあるディスクが唯一の存在。データが消えたらおしまいである。
デジタルデータの消失という、今までの人生になかった脅威と戦う必要があった。
敵は──埃と水と磁気、だ。
その当時、部屋にあるのは、狭い机がひとつだけ。
抽斗がないタイプだったので、モノは机上に置くしかない。
机上には必ず埃が舞う。
飲み物を置くことが多いので、転倒により水飛沫がかかる可能性もある。
磁気に関してはマグネット等の物体を近づけないことも重要だが、CDラジカセが常に机上にあったので、スピーカーの影響も看過できない。
所持枚数が多くないので、コンパクトなもので、この3つの敵を遮断できるケースが欲しかった。
ワープロが普及するにつれ、フロッピーケースも各社から数多く発売されていた。
中でも目を引いたのが、キングジムから発売されていたmbシリーズのフロッピーケースだ。
とにかく過剰だった。オーバースペックのフルアーマーケースだ。見た目が無骨で実にかっこいい。
全身が金属でできている。隙間なく覆われた蓋を閉めてさえいれば、埃など入りようもない。
完全防水ではないが、ケースを水没させない限り水滴が内部に侵入することは考えにくい。
金属製のボディは磁気の内部侵入を遮断する。その表面には衝撃に備えバンパー効果を狙った膨らみが設けられている。蓋の内側には分厚いクッションが貼られており、これで仕舞い込まれたディスクにテンションをかけ衝撃を緩和している。
丸く切られた覗き窓から、フロッピーディスクの有無が確認できる。中のディスクが見えるのはいいのだが、ここは磁気遮断における唯一の弱点でもある。ただ、マジンガーZが全身を超合金Zの鎧で覆われていながら、ホバーパイルダーの風防を最大の弱点としている点にも似て、むしろ燃える設定であると当時は思っていた。
完璧だった。
求めている性能の総てがここにあった。
後にワープロだけでなくパソコンを併用するようになってソフトウェアを含むフロッピーディスクの枚数が膨大に膨らむまで、mbケースはメインで使用され続けた。
このケースに入れていたフロッピーディスクで、データ破損したものは皆無だった。
その後、90年代中頃からは執筆マシンがOASYSからMacに代わったため、小説の入ったディスクはMS-DOSコンバートをかけられ、テキストファイル化された。テキストファイルはMacのハードディスクに格納され、オリジナルであるフロッピーディスクは不要となった。Mac用のソフトウェアもフロッピー供給からCD-ROM供給に移行し、フロッピーディスクは手許から次第に姿を消していく。
21世紀に入り、インターネットやイントラネットが普及し始め、軽量なデータを手渡しするスニーカーネットワークも終わりを告げた。フロッピーディスクドライブがついたマシンは、いまわたしの周りには一台も運用されていない。
すでにレガシーとなったフロッピーディスクだが、ここまで過保護に扱われたメディアも珍しいのではないだろうか。OAブームの中、各文房具メーカーも様々なOA関連の製品を生み出していたが、各社とも特徴を出すために工夫をした結果、このような磁気遮断性能合戦のようなことも行われていたのだ。
mbケースは、まさに時代を現す文房具であると言えよう。いま手許にあっても使い道はないが、時代の象徴として手許に置いておきたい逸品である。
【後日譚】
今でも3.5インチ用のmbを探し求めています(この記事を書く際に入手できたのは5インチのものでした)。
そして一番の想い出は、Twitterでこれの話題を呟いた際に、mbのパッケージデザインに関わられたウメグラさんに出逢えたこと。
よもやデザイナーさんに出逢えるとは思ってもいませんでしたので、大感激でございました。その後いちどコミケでご挨拶しただけに留まってしまっておりますが、やっぱり改めてお礼を言いに行きたいですね。まあ昨今のコロナ禍ではそれも叶わぬ夢なのですが。
ワープロが家庭に、そしてオフィスに入り込んだ結果、「OAサプライ」という謎の文化が花開き、無数の消耗品とグッズが販売されました。今ではパソコンとかスマホとかで「消耗品」ってほぼないわけですが(思いつくのって、インクジェットプリンタのカートリッジくらいでしょうか……)、このOAサプライってジャンルの製品は基本的に文房具(あるいは事務用品)扱いだったので、町の文房具店もけっこう潤ったんですよね。年末になるとワープロの印字用インクリボンなんか飛ぶように売れていったわけですし。
そういうのもどこかで記録しておかないといけませんよね。けっこう忘れがちな事実ですが。
というわけで、今でも3.5インチ用は探しております。発見例がありましたらご一報いただけると幸いです。 -
1980年代の文房具を懐かしむ老害ブログ。
今回はいまでも連綿と続くミリペンの王者です。
初出:2017年11月3日
子供の頃から、漫画を描くのが趣味だった。
ただ、プロのようにペン入れしたりトーンを貼ったり、あまつさえ印刷して本にしようなどとはかけらも考えていなかった。
小学校から高校までの間、描いた漫画はノートやルーズリーフに鉛筆やシャープペンシルで描いたものだけだ。
大学受験に失敗し浪人が決定した春休み──そこから娯楽を捨て一年間学業に集中するという意味も込めて、趣味の終止符として初めてオフセット同人誌を編んだ。ペン入れも初めて、トーンも初めて、オフセット印刷による入稿も初めての経験だった。描いたのはオリジナルのSFホラー漫画だ。
あこがれのGペンで、パイロットの製図用インクを使って夢中で線を引いた。丸ペンを使って集中線も引いた。そして、そのコントロールの難しさにむせび泣いた。
浪人で禁欲的な一年を過ごし、さらに三島市の一年生校舎で無駄な一年を過ごしたわたしは、二年生となり晴れて東京の校舎へとやってきた。
向かった先は、サークルの新入生歓迎会だ。
迷うことなく、漫画研究会に入った。
そこは個性的な先輩が多く、また同期である二年生は話しやすいメンバーばかりだった。入部したての五月には、新入生歓迎号と銘打ったコピー誌に漫画を描かねばならない。知り合ったばかりの同期たちと「何を描くか」「どう描くか」「何で描くか」について話をしていたとき、同期のひとりが持つペンに、わたしの目は釘づけになった。
ボディカラーはアイボリー。
銀色のループとクリップが輝くその天冠には、太さを示す数字。
キャップを外せば、金属パイプの先に、ほんの少しだけ顔を覗かせる細くちいさなペン先。
それが、サクラクレパス「ピグマ」との出会いだった。
同期は、ピグマでさらさらとイラストを描いてみせた。
引かれるたびに紙面に生まれる、黒々とした、それでいて繊細な線。
プロはだし、と言うわけではない。ただ、下書きを繰り返し、そこからそーっとGペンで清書をすることしか知らなかったわたしには、その行為はひどく輝いて見えた。
ピグマで直描き──
かっこいい!
あこがれる!
わたしはその足で、大学前の文房具店に向かった。
だが、そこにピグマはなかった。
記憶が正しければ、最初にピグマに出会ったのは、お茶の水駅前にあるレモン画翠か、もしくはいづみや(現在のトゥールズ)だったはずだ。
そこにあるだけの筆記幅を鷲づかみにしてレジに向かった。
水性顔料インクを採用し、紙面でにじまず、耐水性も確保している。
手軽に使うことができながら、イラストなら必要充分な線の細さを確保できるチップ性能。
滑りすぎず、引っかかるわけでもなく、実にコントロールしやすいペン先とインクの組み合わせ。
通常の筆記具と変わらぬ定価で、使い捨てでも気にならないコストパフォーマンス。
枠線は0.8で、書き文字は0.5で、主線は0.3で、細かな書き込みは0.1で。書き分けに慣れると、そのペンを選ぶ瞬間さえも喜びに変わる。
わたしは一気にピグマの虜になった。
それ以来、ピグマは常にペンケースに入っている筆記具となった。
絵を描くときは最初にシャープペンシルが登場するが、それは下書きに過ぎない。フィニッシュではピグマが登場し、漫研メンバーがたむろする学生ホールの一角で描かれるイラストやカットは、ほぼすべてピグマの仕事になった。
漫画研究会の会誌に使用する原稿では、従来通りGペンやさじペンを使用して描いた。会誌は他の漫画研究会との合評会に提出される前提で作成されていた。クオリティも問われるし、自宅でじっくり描くときはペンのほうが集中できたのも事実だ。
でも、会誌のカットや簡単なイラストはピグマで描いた。気持ちの問題だとは思うが、カットやイラストはライトな感覚で描いたほうが気乗りがするのだ。
同時に推理SF研究会に属し、小説の連載もしていたわたしだが、小説のカットも自分で描いた。そのカットのほとんどはピグマで描かれたものだったと思う。
会誌の表紙も描いた。イラスト、カットの点数は記憶にないほど無数だった。手許にそれらがまったくないのが残念である。コピー誌だったのでカットは原稿に貼り込まれ、自分の原稿ですら手許には戻ってこなかったのだ。
朝も、昼も、夜も、描いた。
そんな時、ピグマは間違いなく戦友だった。
ピグマは筆圧に弱く、インクを使い切る前に何本もペン先を潰した。また消しゴムの擦過に弱く、筆記線が薄くなってしまうこともしばしばだった。それが嫌で途中、他のメーカーに浮気したこともある。
それでも最後に残ったのは、いつものアイボリーのボディだ。
何本のピグマがわたしの右手を通過して行ったのか、今となっては知るよしもない。
絵を描く習慣が途切れて、気づけば何十年も経過している。
知らないうちに、ピグマのボディはアイボリーからネイビーに変わっていた。
もうペンを握ることもないかと思っていたが、こうして今、Web連載としてイラストを描いている。
普段はGペンを中心としたつけペンでイラストを描いているが、本稿のイラストはすべてピグマで清書した。
ゼンタングルにも挑戦した。
実に清々しい。気持ちがいい。脳が活性化したような気がする。
アナログで線画を描くこと自体が、21世紀的ではないのかもしれない。
それでもなお、わたしはここであえて言う。
この指先から生まれる線こそが、わたしの描いた線なのだと。
アナログなめんなよ。まだまだいけるぞ。
【後日譚】
サクラクレパスは「世界初」がけっこうあるんですよね。
このピグマも、世界初の水性顔料ペン。
後に出てくるボールサインは、世界初の水性ゲルインクボールペン。
どちらも本当にお世話になった筆記具です。
イラストで一番苦労したのは、やったことのないゼンタングル。
泉が言っていますが、わたしが描くとゼンタングルというより日野日出志になっちゃうんですよね。恐怖!(日野日出志にはリンクは張りません!)
この回のために改めてピグマを買ったのですが、やっぱり慣れませんね紺色の軸……どんだけアイボリー軸で刷り込まれていたのか…… -
1980年代のさまざまな文房具を懐かしんだり哀れんだりする私的エッセイ。
この回から(編集担当者の依頼により)イラストが2枚に! 原稿料は変わらず苦労が二倍!
初出:2017年10月20日
誰が言い出したのか知らないが、「コピー機を持ち歩きたい」というニーズが発生していた。
最初に普及したジアゾ式(青焼き複写)コピー機は手軽に使用できるものではなかったが、その後PPC式(現在よく見る白焼き複写)がオフィスに普及し、その後大学周辺などで「1枚10円コピー」が可能になった80年代から、コピー機の便利さが一般にも理解されるようになっていく。
それでも、コピー機は店頭かオフィスにしかない。
1980年代なかば──家庭にようやくワープロが入り始めていたが、ワープロのオプションスキャナは高額であるにも関わらずコピー機の代わりになるような代物ではなかった。
しかもワープロのプリンタでは高解像度の出力は難しく、そのたびにインクリボン(専用の熱転写用紙に印字するために必要な、カセット状になったインクフィルム。たいへん高価な消耗品)は消耗するし、価格を抑えようとすると感熱紙(熱を加えると変色する薬剤が塗布された専用の用紙で、長期の保存には向かない)を使用するしかなく、感熱紙の長期保存のために結局はコピーを取らざるを得ないというジレンマも抱えていた。
キヤノンがポータブル複写機「ファミリーコピア」を発売したのが1986(昭和61)年。ワープロのように全家庭に普及したわけではないが、キヤノンは「パーソナルでコピー機が欲しい」というニーズを、「じゃあトナーカートリッジ内蔵で家庭内持ち運びを前提とした縦置き可能なフラットベッド機を作りましょう」と受け止めた。
では、コピー機メーカーのもうひとつの勇、富士ゼロックスはその声にどう応えたのか。
1988(昭和63)年、ハンディ転写マシン「写楽」が登場する。
大型から小型へ。
デスクトップからラップトップへ。
部屋と部屋を移動できる大きさではなく、鞄に入れて外出できる大きさへ。
日本の電子機器は、この時期みな小型化されていく。
小型化された電子機器は、パーソナルユースに近づくと「電子文具」という名を与えられ、家電量販店ではなく文房具店の店頭に並べられた。
写楽もそういう立ち位置にいるマシンだ。
ただ、写楽は電子文具と聞いて想像するものとは趣を異にする体積と重量を有している。電子文具界のスーパーヘヴィーウエイトだ。
鞄に入れて持ち歩くものではない。できないわけではないけど。
インクリボンカセットを含まず、本体の重量は910グラム。
これに外づけバッテリーユニットが必要になる。プラス380グラム。
いまインクリボンユニットの重量を量ったら、29グラムあった。
合計で1,319グラム。1.3キロオーバーである。MacBookProと遜色ない重量である。
これを外出時に持ち歩きたいと思ったことは、一度たりともない。
外づけバッテリーユニットは充電に8時間かかる。
充電完了後、電源を入れる。スキャンしたい紙を机の上に置く。
スキャンできる幅は104ミリメートル、長さは最大216ミリメートル。幅はおそらく葉書をもとにしていると思うのだが、そんな細長い変な形の紙はそうそうない。もっともわたしの使用方法は、バイブルサイズのリフィルに何らかの情報を転写することだったから、このサイズでも不満はなかったのだが。
ユニットをわしっと掴み、転写したい用紙の上をゆっくり、ゆっくり動かす。
その行為は、アイロン掛けそのものだ。しかもアイロンと異なり、安定感がない。細心の注意を払って、皺を伸ばすかのように慎重に慎重にスキャンしていく。
赤いランプがついたら、それは失敗の合図である。やりなおし。
緊張のスキャンが終わったら、写楽の下半分をがしゃりと持ち上げる。するとスキャンユニットがバンパーのように跳ね上げられ、本体下部の熱転写ユニットが露わになる。
ここからまた、緊張の時間だ。
写楽は自走してくれるわけではない。紙が滑らないように敷かれた専用の下敷きの上で、あくまで人が適切な速度で押してあげなければ、正しく印字ができない。
この印字がまた難しいのだ。曲がってはいけないし、早すぎても遅すぎてもいけない。これがまた何か修行のような──そう、まるで「写楽道」とでもいうべき、まったく新しいデジタル修行が発生したかのような、辛く厳しい世界なのだ。
ぶっちゃけ、写楽はコピー機の代わりにもならないし、印刷機の代わりにもならなかった。
手軽に持ち歩くことができないので、友人知人に自慢することもできない。
とにかく印字が難しかった。そのために無駄にインクリボンを消費してしまっていた。
リフィル作りもワープロによる自作が中心になり、複写してまで持ち歩きたい情報はそうそうなかったし、新聞や雑誌なら切り抜きで対処すればよかった。
もうひとつのニーズは年賀状作成だと思うが、印字が難しいし、枚数を刷ると緊張からかものすごく疲れたので早々に挫折した。
写楽を手にしたときには、きっと「電子文具によって具現化された未来」があると信じていたのだと思う。まさに未来を絵に描いたような、ハンディなコピー&ペーストマシンが登場したと喜んでいたのだ。
でも、そこにあるのは修行の道だった。
わたしは買い込んだリボンを使い切ると、わりと早々に写楽を箱に戻し、押し入れにしまい込んでしまっていた。
今はコピー機を持ち歩きたい、と思う人は皆無だろう。
デジタル機器が普及し、フィニッシュがプリントアウトでなくていい時代になったからだ。
スキャナを持ち歩かなくとも、スマホのカメラは充分な解像度を持っている。
わざわざ情報を取り込み、それをリフィルに印字してシステム手帳に綴じ込むこともなくなった。
だから写楽は徒花なのだけど、でもその時代の息吹を強く感じる存在でもある。
今でもたまに、もう動かなくなった写楽を取り出して持ち上げてみることがある。
あの時代の技術革新が詰まった、1キログラムの物言わぬ塊。
そういう時代に生きていた──と後ろを振り向くのは、罪なことだろうか。
【後日譚】
いきなりイラストが2枚になったわけですが、後に振り返ってみれば、やっぱり2枚でよかったです。記事の長さから言うと、やっぱり長文テキストにイラストが1枚ではレイアウト的にも難しいですよね。
ただ、描いているほうはけっこう大変でした。
記事は自宅でなくても、例えばMacBookAirを持ち歩いて電車内とか喫茶店とかで30分もあれば初稿を、その後少し寝かせて推敲したとしても合計1時間かからず書けるのですが。
イラストはそうはいきません。自宅の机にいてじっくりと描かねばならないので。
ケント紙に下書きし、Gペンでペン入れし、スクリーントーンを貼り、それをスキャンする……現物があったとしても、文房具を描くのはなかなか難しいものです。写実を優先しますが、もちろん絵としてのデフォルメも必要ですし。
そもそも「ブンボーグ・メモリーズ」は、「イラストでブツの説明」「記事は他故個人の使用感(当時の状況や私的な感想を含む)」という構成で、いわゆる「製品レビュー」にはしない、というコンセプトで始めた連載でした。
イラスト2枚は確かに慣れるまで苦戦しましたが、2枚になったことで「一枚目はブツのどアップ」「二枚目は機能の紹介」と役割分担ができたことで、全体的にもっとわかりやすい記事に進化していったのです。
ちなみに二枚目の泉(あの女の子の名は泉と言います)のポーズは、当時の写楽のテレビCMのパロディです。CMタレントは松下由樹。松下由樹って言うと、今じゃ「癖のあるおばさん役の役者さん」という認識でしょうけど、そもそも彼女は美人アイドル女優だったんですよ……曲も懐かしいですね。