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1
「さいきん仕事がうまくいってなくてさー」
──ケンちゃんと会う時って、だいたいこの台詞から始まるんだよね。
早川知恵はいつも通りに眉根を潜め、健からのねっとりとした視線を受け流す。
「ほら、俺って今までこれといった努力もせずに、まあまあいい人生を送ってきたわけじゃん」
言いながら大ジョッキのビールをあおる。
「でさ、小学校と中学校はたまたま住んでた場所にいい学校があってさ、そのまま塾にも行かず普通に授業受けただけでちょっといい私立高校に受かってさ」
どん、と置かれたジョッキには、なみなみ入っていたはずの茶色い液体が半分になっている。
「大学は最高じゃなかったけど、でも俺好きだったよあの大学」
知恵は半眼になって健を見遣る。
去年から交際しているこの男──飛鳥健とは、大学のサークルで知り合った。
珈琲焙煎研究会は大学非公認だったが、学生ホールでの勧誘会で香ばしい香りに誘われ、説明を受けまいかどうするか迷っている時──そこに大股ですたすたと近づき、「どう? ちょっと寄ってく?」と声を掛けてくれたのが、四年生の健だったのだ。
その後の新入生歓迎会で隣同士になり、なぜか知恵が飼っているパグの話題で盛り上がり、そこから交際が始まったことを、まるで昨日のことのように思い出す。
天然パーマを隠さないちりちりの短髪。毎日は剃らないのか、うっすらと髭の跡が残る細い顎。太い眉毛はそれなりに整えてあり、切れ上がった目つきは爽やかな印象を振りまいていた。
だが、知恵の脳裏にある健と、いま眼前に座り鯨飲馬食を繰り広げる健とは、レイヤーで重ねても相貌が一致しない。
「うめえなこの唐揚げ。知恵も食べろよ」
言うが早いか、タブレット端末を取り上げて健はビールを追加注文する。テーブルの上には、唐揚げ、フライドポテト、牡蠣フライ、焼き鳥、サイコロステーキが所狭しと並ぶ。
「しかしさ、この俺の潜在能力の高さを持ってしても、やっぱり仕事ってやつは難しいな。もう毎日失敗の連続さ。それもここで話して笑って済まされるやつじゃなくて、もっとちっちゃくてせせこましくて、でも毎日きっちりやらないとお客さんに怒られちゃうやつ。まあ、お客さんより前にたいてい課長に怒られるんだけどな!」
へらへら笑いながら、フライドポテトを五本ほど一気に頬張る。たわんだ頬がもちゃもちゃと蠢動し、顎肉がたるんたるんと揺れた。
「こないだもさ、お客さんとこで書類もらってさ、帰ってきたら足りないんだよ。で、もっかい取りに行こうと思ったら課長から『往復二時間かけて書類一枚じゃ効率が悪すぎる。相手に説明してPDFをメールしてもらえ』だとさ。営業マンは対面が生命、状況説明と笑顔で納得頂いてこその営業マン! ここで失敗を挽回しつつ先方に気に入ってもらう作戦、悪くないと思うんだけどなー」
言いつつ、追加で来たビールをごぼごぼと胃に流し込む。
「でさ、こういっちゃなんだけどさ、万能天才であるところの俺もさ、電話ってやつだけは大の苦手でさ。掛かってくるヤツはもう機械的に出て対応できるんだけど、掛けるのがホント苦手でさあ。電話って相手の表情が判んねえだろ? 何となくビビっちまって他の仕事してたらあっという間に一時間。それでまた課長につつかれてさ」
「……やる気あんの?」
知恵が言う。
「そうそう、課長の言い方そっくりだ! 判ってるねえ知恵ちゃん」
この話題は初めてだったが、それ以外の健と課長とのやり取りはうんざりするほど聞かされている。知恵には、面識こそないが課長の口調も表情もはっきりと想像できた。
「で、結局平謝りして書類をメールで送ってもらってさ。もうヒヤヒヤもんだよ」
ヒヤヒヤするのはあたしもおんなじだよ──知恵はそう言おうとしたが、口を開こうとしたその上に、さらに健がかぶせてくる。
「でさ、その取引先ってのがさ、入谷にあるんだけど、電車じゃ行けなくてバスを乗り継ぐんだ。うちは貧乏メーカーだから、営業車ってやつがなくてさ、電車かバスかタクシーで営業回りすんのね。俺は新人だからタクシーは禁止で、電車とバスで回るんだけど、まあそのバスがないない。一時間に二本くらいでさ、しかもその取引先の周りは食い物屋がないから昼前に行ってバスで駅に戻るか、駅で昼食ってからバスで向かうかの二択しかないんだ」
しらねーよ、と唇を動かそうとしたが──知恵は思いとどまり、ずっと避けていた健の視線に目を向ける。
「あのさ」
「何?」
「今、体重何キロある?」
「……最近は測ってねーけど……正月に実家で測ったときは……六九キロ……」
「身長は?」
「……一七〇センチ……」
「大学卒業するまでの体重は?」
「……たしか……五九キロ……」
知恵はいったん言葉を切り、ストローで烏龍茶を吸い上げる。
健はその知恵の行為を瞬き一つせず凝視する──するしかなかった。
ぐびり、と喉が鳴る。飲んでいる知恵のではなく、健の喉から出た音だった。
知恵はストローから唇を離し、ひと息ついてから、こう告げた。
「別れよっか」
2
あれ以来、知恵との連絡はいっさい取れなくなった。
健はLINEを開き、毎日のように「元気か?」と入力し送信する。
知恵の既読はつかない。
あの晩、どうやって帰宅したのかも定かではない。気づけば健は自分のアパートにいた。
財布から現金は減っていなかった。知恵が払ったのかもしれない。後で確認したが、クレジットカードの支払い明細にも載っていなかったし、モバイルSuicaやペイペイの履歴にも支払いの事実はなかった。
知恵が自分に愛想を尽かした、という事実が健に重くのしかかる。
翌日の午後から、経験したことのない偏頭痛に見舞われた。
夕方には、かつてないほどの肩こりで腕が上がらなくなった。
それ以来、注意力は散漫になり、仕事でのミスが激増した。
課長は健を個人的に呼び出し、面談を行ったが、健自身も不調の理由を説明できない。
原因は判っている。だが、理由は判らないのだ。
一度の挫折も経験せず、健は社会人になっていた。
小学校や中学校ではそれなりに成績優秀で、体育もそつなくこなした。得意なスポーツはなかったが、かといって苦手な種目もなかった。
高校は通える範囲で一番の私立高校に合格した。彼の両親は、大学は東京の私学に行かせる腹づもりだったため、受験勉強に特化したクラスで彼はそこでもそつなく過ごした。
大学は第二志望の私立B大学だったが、両親にも彼自身にも不満はなかった。両親がアパートの代金を、光熱費と生活費は自らアルバイトで捻出することを条件に、健ははじめての独り暮らしを東京で始めた。
大学では法律を学んだ。ゼミではジャーナリズムと法律について研究をしていたが、法律そのものに興味は持てずにいた。喋るのが好きだったので、営業職が向いているのではないかと勝手に解釈し、彼自身は業種を特定せず、なんとなく広範囲に就職活動を行っていた。
運良く小さな玩具メーカーに就職した彼は、そこで三ヶ月の研修を受けた後、営業マンとして都内の問屋を回る部署に配属となる。
ここまでは、まったく努力もなく、ただ流れと勢いだけの人生だった。楽な生き方をしてきて、泥水をすすることもなく、ただまっすぐの道を自分のペースで歩んできた。それで何の問題もなかった。
だが、ここから先は挫折の連続だった。
彼は現場に出て経験さえすれば総ての知識はつくものだ、与えられるものだと過信していた。
彼の職場は課長が一名、係長が二名、その下に部下が二名ずついるだけの少数部隊だった。彼を直接教える立場にある係長と先輩社員は、地方に顧客がいる関係から出張が多く、月初と中間打ち合わせ、月末の月に三日しか本社にいない。もうひとつの係は仕事が違うため、健に何かを教えてあげられるわけではなかった。
健は課長直属に近い形で仕事を始めたが、課長は社内業務と大手取引先との商談に忙殺され、健と社内で話し合う時間すら持てない状態だった。徒手空拳で挑む健は取引先で揉まれ、不手際を起こし、その不手際も健は課長に直接報告できない。日報をパソコンに入力して帰途に就く二一時すぎでも、課長は席に戻らない日が続いた。
結果として、毎朝──日報を見たり事務員からの電話メモを見たりした課長が、健を叱り飛ばす光景が繰り広げられることになる。
健のやる気は日々削がれていった。相談できる人が側におらず、今まで通り経験則で体当たりするとかなりの確率で失敗する。報告も億劫になってしまい、日報が溜まって対応が後手後手になる。取引先からの苦情も増え、課長も健の行動を問題視せざるを得なくなっていく──。
そんな悪循環が、昨年七月から今年の三月末まで繰り返されていた。
健は大学時代、簡単な自炊で夕食を賄っていた。だがそういった心の余裕も次第になくなり、配属後はアパートの近所にある居酒屋で呑んで食べ、帰宅後は酔ったまま寝るような生活パターンに陥っていく。
あんなに好きだった珈琲も、毎朝豆を挽くのが億劫になり、粉で買うこともなくなり、インスタントすら面倒で飲まなくなってしまっていた。
すたすたと大股ではや歩きするのが特徴だった健だが、この頃には階段の上り下りで息を切らすようになっていた。
総てが悪循環だった。
そして、そこに追い打ちを掛けるような、知恵の態度。
目の前が真っ暗になったような気がして、健は課長の許可を得、有給休暇をもらい近所の内科に相談に来ていた。
「血液検査の結果で言えば、異常値はありませんね。数値が上限ぎりぎりのものは散見されますが、すぐに改善しなければならないというわけでもない」
老医師は暗く落ち込んだ表情の健に、こともなげに告げる。
「体力が落ちているようですし、適切な休息と──あと、体重は落とした方がよさそうですな」
簡単に言うなあ、と思いつつ健は内科を後にする。
iPhoneを見ると、課長からのLINEが入っていた。
「明日は出社できるか? 説明したいことがある」
健はめんどくさそうに「行きます」とだけ返信した。
3
「販売促進課より転属になりました、東条未来と申します」
長身の女性はひらりと頭を下げた。健はその姿を、自席で立ったまま見つめる。先輩たちがぱらぱらと拍手をし出したので、健も合わせてけだるげに手を叩いた。
「四月期の配置転換は珍しいのだが、わしのたっての依頼で彼女はここに来てくれた。飛鳥を除けばみな知っての通り、東条はわが営業課の生え抜きの営業ウーマンだった。去年、販売促進課に引っこ抜かれたときは人事に猛抗議したくらいだ。代わりに新人の飛鳥が入ったわけだが、都内全域をわたしと飛鳥だけで網羅するのは無理がある。そこで再び、彼女には古巣に戻ってもらうことにした」
「飛鳥さんとは初対面になりますが、他の皆様とまた同じ仕事ができることを嬉しく思っています。改めまして、宜しくお願いします」
未来はそう言って、再度ひらりと頭を下げた。
健はそんな彼女について、その後課長と未来自身から、じっくりと話を訊くことになる。
「入社八年目になります」
未来は落ち着いた口調で、対面に座る健に話しかける。会議室に空きがなかったので、特別に借りた役員接待のための応接室は、ソファがふかふかすぎて、健には居心地の悪い場所だった。
「彼女はわしが課長になりたての時、この営業課に配属になった」
未来は最初、この営業課の営業事務担当だった。
しかし彼女の能力は内勤にはもったいないと課長が判断し、二年目より営業担当に抜擢される。それ以降、未来は数年にわたり課長とタッグを組んで外回りを始めることになったのだ。
「で、去年、お前が新人でうちに入ることが人事で決定され、自動的に東条は人手が足りない店頭支援の部隊に回されたんだ」
「ということは──」
「入社八年目ですけど、想像より若いんですよ」
落ち着いた口調で未来は言う。だが、健はにわかには信じることができない。
眼前にいる、グレーのスーツに身を包み、黒髪ストレートの髪から大きめの耳が覗くこの女性が、わずか二歳年上なだけだとは到底思えないのだ。
大きめの眼鏡の中では、糸のように細い目が微笑んでいる。唇に惹かれたルージュは紅く、顎は尖り気味だ。その口から、顎から出てくる言葉のひとつひとつが、実に落ち着いていて奥深い響きを伴っている。
「彼女のこの落ち着いた態度は、入社以来まったく変わっておらん。取引先でも好評だった。だから、お前の評判が悪いのはお前のせいだけではないとわしは思う。東条と較べれば、わしもたぶん評判の悪い営業マンになってしまうだろうからな。だが、厳しいことを言うようだが、お前も現場で九ヶ月やってきた。もうただのド素人ではない。OJTが行き届かなかったことはわしに責任があるが、これからはお前に本当の意味での教育をすることができる」
未来を観察していた健は、課長の言葉に慌てて返す。
「え、今なんて……」
「我流が通用しないことは判っただろう。教育できなかったわしも反省している。今日からは、東条がお前の教育係だ」
「え」
視線を課長から未来に戻す。
未来はにっこりと微笑んでいる。
「今日から三ヶ月間、お前と東条は二人三脚だ。七月に二年目になった時、お前を独り立ちさせる。この三ヶ月でビギナーを卒業しろ」
「え」
また未来から課長に目を移す。
「タイムリミットは三ヶ月。判らないことは自分で判断せず、総て東条と相談しろ。東条はいっしょに営業に出るが、現場ではいっさい口出しせんし訊かれたことしか答えん。どんどん訊いて、身体に叩き込め!」
今度は声も出ない。健の視線だけが、未来と、課長の間をぐるぐると回っていた。
4
「宜しくお願いします」
席に戻り、健は未来にまず頭を垂れた。今までの人生、意味もなく自信満々で、状況に合わせひとりで何でもやってきた彼にとって、初めてのマンツーマンの教育係──言い方は悪いが、健には未来は課長から派遣された監視役に思えてしまう。
「課長はああ仰ってましたけど」
未来は打ち合わせ机から椅子をひとつ移動させ、健の席の隣に座った。
「気楽に行きましょう。訊かれたらもちろん答えますけど、それ以外にもちゃんとフォローもアドバイスもします」
眼鏡の奥の糸目が、さらに細くなる。
「はい、判りました……えーと、まずは何をすればいいですかね……」
おっかなびっくり訪ねる健に、未来は穏やかな口調で告げる。
「今日明日は事務整理と、今後の営業のやり方について考えましょう」
「はい」
健は塾や家庭教師を経験したことがない。個人授業を受けるということは、こういうプレッシャーを感じ続けることなのか──と独り勝手に肝を冷やしていた。
「幸いなことに、課長にお伺いしたところ、今週は重要な仕事はないそうなので。実際の外回りは来週から再開することにして、まず現状を把握させてください」
未来はそう言うと、営業に関する資料を健に用意させた。ほとんどの情報はサーバーに蓄積されているので、彼の仕事上のデータは机上にあるパソコン、あるいは外回りで閲覧するためのiPadで確認することができる。
未来は健のつたない説明に従い、それらの情報を閲覧していたが、ふと視線を外すと彼の手許や胸元を確認し出した。
「何でしょうか?」
チェックされてる──健はそう感じ、冷や汗を掻きつつつい大声を出してしまう。
「あ、いえ、ごめんなさい。訊いたこと、訊かれたことをいっさいメモに取らないので、記憶力がいいのかしらと」
健ははっとする。確かに受け答えの際に間違ったことは言っていない自信があるし、未来に言われた今この場でのアドバイスは反芻できる。ただ──明日になったら、この記憶はどうなるのか? 思い出し、受け止め、活かすことができるのか?
「すみません、ぼーっとしていました。記憶力は良い方だとは思いますが、確かにメモは必要です」
慌てて返答から、またはっとする。配属になった初日、課長にも「憶えるのもいいが、忘れないように、反芻のためにもメモを残せ」と言われていたのを、今さらながらに思い出したのだ。
「わたしも課長に、入社して最初に言われました。何でもいいから書け、と。だからメモとペンは欠かさないようにしています」
未来はジャケットのポケットから、小さなリングメモを取り出した。
「これ便利なんですよ。〈パッとメモ〉って言って、空白のページが必ず開くようになっているんです」
と言われても、理解できない。健は返事を忘れ、手許のメモを覗き込んだ。
「判りますか。リングメモって、天面にリングがあって、穴の空いたメモ用紙が綴じてありますよね。このメモ用紙が、左側の側面だけ糊でくっついてるんですね」
未来はメモを持ち上げ、手首を返す。塩ビでできた表紙と数枚のメモがリングを軸に背面に回り込み、〈パッとメモ〉は彼女に白い未記入のメモ欄を見せた。
「使ったページは、側面の糊からはがしておくんですね。そうすると、急いで書きたいとき、白紙のページをこうして一発で準備することができるんです」
細くすらりと整った未来の小鼻が、わずかに膨らんだ。
「ペンはこれです」
続けて、彼女は胸元からローズピンクに輝く細身のボールペンを取り出した。
「〈アクロ1000〉です。細く、濃く、なめらかに書けて、女性のスーツみたいな狭いポケットにもすっと収まります。お洒落でありながら実用的で、この握る部分のほんの少しの膨らみが好きなんです」
そう言いながら、未来は健にボールペンを手渡す。彼はおずおずと受け取り、グリップ部分をまじまじと見てからそっと握ってみた。金属軸だが塗装のせいか冷たさは感じない。重心が適度に先端に集まっているのを、指先に感じた。未来が言っていた膨らみの部分だ。
「いま油性ボールペンは、この低粘度油性という、なめらかに書けるインクが主流になっています。細い線がすらすらと、しかも黒々と書けるんです。書き出しがかすれる心配もありませんし、一〇〇〇円という価格のわりに高級感もあります。一〇〇円の透明軸も大好きなのですが、取引先で取り出すペンとしては胸ポケットから見えていても違和感のない、このペンを愛用しているんです」
失敗コピーの裏紙に、〈アクロ1000〉で書いてみる。途切れることのない黒々とした細い線が苦もなく書ける。
「飛鳥さんは、仕事とか物とかにこだわることはありますか」
健はその質問を耳にし、ぐるぐると書き散らしていたボールペンの線を止めた。
「こだわること……」
言葉は知っている。辞書を引けば第一義には否定的な──気にしなくてもいいようなことを気にしすぎる、という意味が出てくる言葉だ。ただ健の認識では、決して否定的な言葉ではなく、むしろ「趣味人の粋」のごとく、比較的いい意味で使用される例が多いような気がする。
こだわりはありますか──そう言われて答える言葉がない自分に気づき、健は動揺した。
仕事にこだわりはない。否、こだわりどころか、関心すらない。体験を増やしてもっと営業を上手くなろうとも思わないし、別の勉強をして自分を拡げたいとも思わない。メモも取らないし、机の引き出しに転がっているボールペンはさっき未来が明確に持ち歩きを否定した、透明軸の名もなき支給品だ。唯一こだわりと言えば珈琲だったが、それも豆を挽かなくなってずいぶん経ってしまっている。
いきなり深いところをえぐられた気がした。仕事とは──自分にとって仕事とは何か?
健は答えられない。ペン先はぐるぐるをやめ、あるひとつの言葉を書いたっきり止まっている。
「……飛鳥さん?」
未来は裏紙に仕事と書いたまま固まってしまった健に、やや戸惑ったような声音で尋ねる。
「正解はありませんよ」
言うが早いか、健の手から〈アクロ1000〉をそっと取り上げ、自らの胸ポケットに滑り込ませる。健はペンを奪われたことすら気づかない。
「仕事だけじゃないです。何事にも、正解はありません。やってみて、上手くいかなかったら別の方法でもう一回やってみる。ただそれだけです。その別の方法を指南するのが、わたしの役目です。いきなり成功することはめったにないですし、失敗しても生命を取られることはありません」
眼鏡の奥の糸目が笑みかける。
健は答えられない。
ただ、ようやく、頷くことだけはできた。
「……宜しくお願い致します」
「じゃ、午後はさっそく」
未来は椅子に掛けてあったバッグを持つと、やおら立ち上がった。健はその姿を目で追う。先ほどの質問でショックを受けたその身体は、まだ思うように動かすことができないでいた。
「わたしはこれから課長と昼食ミーティングがあります。帰ってきたらいっしょに出かけましょう。課長、午後の外出よろしいですか。飛鳥さんの仕事道具を買いそろえてきます」
健は頷くしかできなかった。
その日の昼食は社員食堂でひとり、カレーライスの大盛りを食べた。だが、味は判らなかった。 -
第一話
情熱と冷静
真新しいフロア内に、終業時刻を告げるチャイムが鳴り響く。
「今日はぜんぜん仕事が進みませんでしたあ!」
五月最初の終礼は、桜の元気な敗北宣言で締められた。
「仕事どころか……お前、ぜんぜん駄目だよ……」
それを耳にした先輩の竹林が、頭を抱えて呻く。
「まあまあ。今日は引っ越しが中心だったし、仕事に支障が出ているわけでもない。秋山、ゆっくりでもいいから確実に憶えていくんだ」
そう告げると、業務係長の山栗は微笑みの表情を崩さないまま、毎日の日課を桜に課した。
「さて、秋山。今日のメモは?」
「はいッ!」
桜は笑顔を崩さず、机上に拡げてあったキャンパスノートB5を取り上げ、ページを繰って中を読んで見せた。
「えーと、新しく支給された入館証を忘れないこと! ゴミは分別して捨てること! 入退館データは毎朝パソコンで確認すること! 机の上に物を出して帰らないこと! 女子ロッカーは整頓して使用すること!」
ノートを机上に戻し、山栗に向け敬礼する。
「以上です!」
「足りないぞ秋山……さっき私が言ったこと、憶えてるか?」
竹林が呻くように言う。桜は満面に笑みを浮かべ、振り返りつつ先輩に親指を立てた。
「忘れました! そういうタイプですからわたし!」
「はいはい終了終了。一八時までに退館しろよ。まえの事務所と違って、玄関ゲートを一八時までにくぐらないと駄目だからな」
山栗はふたりにそう告げると、机上の書類をアルタナハードバッグに詰めて壁面に連ねられた書類用ロッカーに向かう。他の係員も、みな思い思いのバッグや書類ケースを持って係長の後に続いた。
桜は手にしていたノートをアネロのリュックサックに放り込み、書類はそのままばさばさと抽斗に流し込んだ。竹林はぎょっとしたが、見ぬふりをして自分も書類をクリアホルダーごと抽斗に押し込む。
「そうだ、思い出しました! 先輩、これどうしましょうかね?」
桜は笑顔で竹林に訊く。手には、シャープペンシルが握られている。
三菱鉛筆のクルトガだ。
書くたびに芯が内部機構で回転し、片減りを防ぎ先が尖った状態を維持し続ける画期的なシャープペンシルである。桜が中学一年から使っているものだから、六年物ということになる。キャラクター柄ではなくシンプルなピンク軸だが、問題はその先端だ。
パイプが折れて曲がってしまってるのだ。
「え? いや、あの……お、おう……どうしようって、それもう書けないって、さっき言ってただろ?」
竹林は抽斗の中を見られたのかと勘違いし、異常なほどに狼狽しつつ答える。
「筆圧高い方かな、とは思ってたんですよわたし」
竹林はハンドバッグにスマートフォンを滑り込ませ、桜の言葉を無視し席を立とうとする。
「で、どうすればいいですかね?」
「新しいのを買えばいいだろ」
「どこで?」
桜はかわいらしく小首を傾げて見せる。そういう一切の挙動が、竹林の気持ちをざわつかせる。
「どこでもいいだろ!? 文房具売ってるとこなら! ここは銀座だぞ、店なんかいくらでもあるだろ!」
「知りませんよ。だって銀座に来たの、今日が生まれて初めてなんですから」
竹林は目をつぶり、首を振って眉間に皺を寄せる。
「会社を出ると、目の前が中央通りだ」
そんな竹林を尻目に、山栗がヴィトンのネヴァーフルを肩に掛けつつ、桜に説明を加える。
「会社を出たところをすぐ左に曲がって、目の前の交差点を渡ると、銀座一丁目。しばらく歩いて行くと、赤いクリップのついたビルが見える。それが伊東屋、銀座界隈で一番上等な文房具店だ」
「さすが係長! 大人の女は違いますね! 憧れます! ブランドとかいっさい興味ないけどわたし!」
「上司に向かってそんな褒め方があるか……」
頭を抱え、立ち上がる気力すら失せた竹林を尻目に、桜はリュックサックを背負うと、山栗に向けて敬礼した。
「では、お先に失礼しまーす!」
竹林はそんな桜の背後に向け、ひらひらと掌を振ってみせる。
山栗は一本に縛っていた髪を解き、それを右手で軽く梳きながら、桜が扉の向こうに消えていくのを見守った。
「全く何て言うか、疲れるヤツですねあいつは」
竹林はようやく立ち上がり、山栗に軽く会釈しながらその横を通り抜けようとする。
「でも気持ちがいい子でもある。竹林だってあの子、別に嫌いじゃないだろう」
「そりゃまあ……」
竹林は話しかけられ、立ち止まらざるを得ない。
「お前、何年目だ」
「六年目、ですね。最初の三年が営業、それから山栗さんの下について二年と一ヶ月です」
山栗は、立ち止まった竹林の目を見る。
「入社したての五月って憶えてるか?」
竹林は視線を逸らせ、LED照明の並ぶ天井をぼんやり眺めた。
「えーと、自分は営業職で入社しましたから、まだこの時期は研修中でした。四月いっぱいまでは座学と工場見学と……実務に繋がる講習は五月半ばの営業同行研修からでしたから……」
山栗は竹林の視線が逸らされたことを知ると、右手を伸ばし机上にあった鏡を取り上げた。
「じゃ、見守ってやれよ。お前と同行した先輩営業だって、今のお前と同じような気持ちだったんじゃないか?」
「……ですよね……」
髪の伸ばし具合をちらりと見ると、鏡をすばやく抽斗にしまい込む。
「それに私は、秋山を信じている。あいつは手で書くことを厭わない。だから、あいつはきっと、うまくいく」
竹林は目を伏せる。
「そういうもんですかね」
「私がそうだったから、そう信じたいだけさ。じゃな」
言うが早いか、グレーのパンツスーツの山栗は立ち止まる竹林の横をすり抜け、颯爽と扉の向こうに消えていった。
「それから竹林、抽斗は押し入れじゃないんだ。押し込めばいいってものじゃない」
すれ違いざま呟かれた言葉に、軽く血の気が引く竹林であった。
スレートブルーのウインドブラストベストと、漆黒のタンカー・デイパック。ベストから伸びた細い腕は、ボーダー柄のロングTシャツで覆われている。ジーンズはスキニーの黒、足許はジャックパーセルのモノクロームブラック。
揺れるポニーテールも、濡れ羽色の黒。
全体的に黒い。
ただ、服から露出している顔と指先は、はっとするほど白い。
その細い指先が、じっとりと汗ばむほどにデイパックのショルダーベルトを握りしめている。
もう、五分ほど眺めているだろうか。
深澤海の目は、ガラスケースの向こう側に釘づけになっていた。
「お探しの商品はございますか」
スーツ姿の女性店員が、壁際で立ち尽くす彼女に向かい声を掛けつつ歩み寄ってくる。
海は、背に冷たい汗が流れるのを感じた。
──焦るな、あせるな。あたしは見てるだけ。見てるだけなんだ。
「よろしければ、お出しいたしますけど」
黒髪ストレートで豊かな胸の店員が、紅いルージュで彩られた唇をゆっくりと開き、海を誘う。
──あたしの今日のターゲットはこれじゃない。これじゃないんだ。
ガラスカウンターから半歩、後退る。ポニーテールがゆっくりと左右に揺れる。それはまるで、彼女の心を現しているかのようだった。
揺れる。
揺れる。
振り子のように、海の心も揺れ動く。
「いえ、その……」
──見るだけならタダだ。別に取って食われるわけじゃない。
海は思い直す。堅く握っていたショルダーベルトから手を離し、ゆっくり、ゆっくりと指を伸ばす。
「えと……見るだけ……なんですけど……」
その指先は、ガラスケースの中にある万年筆を示している。
「はい、お待ちください」
店員は手早くポケットから鍵を取り出し、ガラスケースの錠を開けた。鍵をしまうと、代わりに取り出した白手袋を填め、その万年筆を取り出してみせる。
「どうぞ」
海は受け取れない。
指先は、それを指さしたまま固まってしまっている。
のどもからからだ。
半開きの口から、吐息と共にひとこと吐き出すのが精一杯だった。
「えと……触っても……いいんですか……」
「……どうぞ」
店員は同じ台詞を吐く。
憧れのペンが、ここにある。
──知ってる。
憧れのペンに触れることができる。
──知ってる。
触るだけならタダなのだ。見て、触って、おもむろに「今日は結構です。ありがとうございました」と告げて涼しい顔でフロアを去ればいいのだ。
──知ってる!
それでも、やっぱり海は動けない。
背だけでなく、額からも冷たい汗がだらだらと流れ出していた。
脳の一番奥にある芯みたいなところが痺れているのを、彼女は自覚し始めていた。
秋山桜はもうすぐ一九歳になる、社会人一年生だ。
この春に高校を卒業し、地元である平塚市の企業に就職したのだが、その神奈川営業所が新本社建て替えによって銀座本社内に統合されてしまったのだ。自転車で通えることが桜にとって重要だったのに、たった一ヶ月で彼女は一時間の電車通勤を強いられる生活を余儀なくされた。
桜の職業は、社内では営業業務と呼ばれている。その仕事内容は多岐にわたる。神奈川営業所にいた営業員たちの様々なサポートをするのが彼女の仕事だが、入社し配属されそろそろ一ヶ月が経過しようとしているにも関わらず、桜は仕事をまるっきり憶えられないでいた。
あるのは空回りな情熱と、元気な返事だけだ。
教育係である竹林稲穂が業を煮やし、山栗係長に泣きついたのが今から二週間前。竹林がOJT(現任訓練)を拝命して一週間と経っていない時期だった。
山栗は、桜にノートと筆記具を持ってくるように告げた。翌日、彼女は高校時代に使っていたクルトガと余っていた新品のキャンパスノートを会社に持参し、上長の指示を仰いだ。
要点は四つ。
ひとつ、毎朝山栗係長から告げられたことをメモすること。
ひとつ、竹林リーダーから注意されたことやアドバイスされたことをメモすること。
ひとつ、終業後に今日の振り返りとして、山栗係長にノートの内容とその結果を発表すること。
そして最後の一つは──今日の出来事、思いついたこと、なんでもいいのでノートに自分の言葉を残すこと。仕事中でもいいし、会社帰りでもいい。それは見せなくてもいい。
桜は山栗係長の言うことを忠実に守った。
それまでは、書くことといえばあくまで授業の一環であり、自らの人生では「学校生活が終わればほぼなくなるもの」程度に認識していた桜だった。だが、山栗係長に言われて毎日なにかしらノートに書きつけるようになってからは、少しずつではあるが書くことじたいが好きになっていた。
永いゴールデンウィークが終わろうとしている五月六日──世間は休日であるが、桜たちにとってその日は銀座本社ビルへの引っ越し作業の日だった。仮社屋にいた旧本社の社員とともに、神奈川営業所の営業員と営業業務も、この日から銀座本社勤務となる。
午前中は引っ越しの片づけで終わった。
午後は社屋内の説明、新しい出退勤システムの説明、そして本社営業部と神奈川営業所から来たメンバーとの打ち合わせで二時間を費やした。
打ち合わせが終わった後、席に戻った桜はパソコンの画面を覗き込み、「先輩、ウインドウズ10って判ります?」と効くばかりで、一向に仕事を始めようとはしなかった。
桜は何もしなかったのではない。何もできなかったのだ。
ゴールデンウィークの間に仕事の段取りをすっかり忘れてしまっていた。
竹林は激怒した。いくらなんでも忘れすぎである。桜にキャンパスノートを取り出させ、最初のページから改めて読ませ指示し追記させ、四月分の記憶を取り戻させようとした矢先に──クルトガの先端が折れたのだ。
「折れちゃいましたね」
ぺろりと舌を出す桜に、竹林の怒りは頂点に達した。
「折れちゃいましたじゃないだろー!? 他にペンの予備はないのかよ! 書けなくなったら今日の仕事は終わりなのか? 違うだろー!?」
「ないんですよ他のペン。あんまり文房具関心ないんで、わたし」
「せめてボールペンの一本や二本、別に持ってろよー! 社会人だろー!?」
頭頂部から湯気を上げた竹林の奮闘むなしく、桜の銀座就業初日はそこでタイムアップとなった。
竹林の怒りは理解できなかったが、桜自身も「しまったな」とは思っていた。
これでは、今日の分のノートを書くことができない。
自宅に帰れば、妹から筆記具の一本や二本、借りることはできるだろう。
ただ、少しずつではあるが書くことが好きになっていた桜にとって、それは納得のいかない解決方法でもある。
──借りたペンで満足できるかなあ。
口では「文房具に関心はない」と言うものの、彼女にとって筆記具はいつしか大切なものになっていたようだ。このノートを書き続けるなら、自分の気に入った一本を手許に置きたい。
──やっぱり、わたしのペンが欲しいよね。見てみて、よく判らなかったら、同じクルトガをもう一回買えばいいんだし。
そうぼんやりと思いつつ、桜は山栗に教えられた通りの道を辿り、いつしか銀座伊東屋の前に立っていた。
ガラスが大きい。でも、入り口はちいさい。
一階には筆記具が見当たらない。エスカレーターの脇に店内案内があるが、ぱっと見てよく判らない。仕方がないのでカウンターで訊いてみると、どうやら三階まで上がると筆記具があるようだ。
二階のレターセットのフロアを抜けて、もういちどエスカレーターに乗る。いきなり幅が狭い独り用になっているのに軽く驚きながらも、桜は三階に思いを馳せて顎をあげた。
三階は──桜が思い描いていた文房具売り場ではなかった。
木とガラスでできた什器がずらりと並ぶ、高級筆記具だけを扱ったフロアだったのだ。
少なくともここには、自分の財布に入っている小銭で買える筆記具はない──それは彼女にも、直感的に理解できた。
踵を返そうと思ったその瞬間──
「ぐはッ!」
桜は小柄な少女と真っ正面からぶつかり合った。
衝撃で肺から大量の呼気を奪われ視界を白くする桜と、そこから素早く離れていく電光石火の少女。
薄れゆく意識の中で、桜はその後ろ姿を可能な限り脳裏に焼きつけようと、言語化を試みる。
──ちいさくて黒ずくめの女の子。揺れるポニーテールが黒豹の尻尾みたいだ。
咄嗟に傍らのケースに手をつき転倒を逃れた桜は、軽い目眩を覚えつつも足許に力を込め脚を開いて踏ん張り、そして可能な限り大きく息を吸い込んでから背後を振り返った。
黒い弾丸は、すでに階段のある空間に姿を消していた。
今ならまだ追えるかもしれない。
桜には、ぶつかってきた少女を追いかける義理はない。確かに接触事故に対し謝罪の一つもないことは引っかかりを憶えたが、自身が怪我をしたわけでもなく、また彼女に謝罪をさせたいわけでもなかった。
ただ。
──もしかしてあの子、泣いてなかった?
顔面が濡れて光っていたことを、桜の頼りない受光素子がぼんやりとした画像データとして捕らえていた。
気になった。
あの子が泣いている理由が、少しだけ気になったのだ。
そしてもう一つ。
──このフロアに用はないよね、わたし。
だから、桜は少女を追って、階段のある方向へと駆け出していた。
銀座伊東屋は、上りはエスカレーターがあるが、下りはエレベーターか階段しかない。桜が階段前にやってきたとき、下方から階段を駆け下りる足音が鳴り響いていた。少女は間違いなく、階段を使って降りている。桜はまだ目眩から完全に回復してないせいか、おぼつかない足取りで階段を降りていく。駆け下りる、までの勢いは出せない。
一階まで降りて、息を切らした桜はいったん歩を休め、そのまま呼吸を整えつつゆっくりと歩き出す。入ってきた正面入り口とは異なる、裏通りに面した出口をくぐると、周囲をぐるりと見回した。
少女の姿は、ない。
無論、正面から出ていったのであれば、ここで姿が見えないのは道理であろう。桜は正面に戻ろうか逡巡したが、視界にもうひとつ伊東屋の看板があることに気づき、考えを改める。
そこにあったのは、赤いクリップではなく、黒い万年筆がトレードマークの、もうひとつの銀座伊東屋だ。
伊東屋が二軒あるとは、山栗係長からは聞いていない。ただ、桜は思う──もしかしたら、表の伊東屋はお金持ちのための店で、こっちの裏道のちいさな伊東屋が、我々庶民の店なのではないか?
だったらなぜ看板が高級筆記具の象徴である万年筆なのか判らないが、桜は本来の目的を思い出す。
──そうだ。わたし、自分のペンを買いに来たんじゃない。
少女を探すことはすっぱり諦め、桜はもう一軒の伊東屋に足を踏み入れた。
さきほどの表伊東屋に較べると、狭い。だが、そこには、桜でも買うことができそうな筆記具がずらりと揃えられていた。
「なんだぁ! こっちならいけるじゃん、わたし!」
つい声に出してしまい、はっとなって口を押さえ周囲を見渡す。店員以外で視界に入った客層はほとんどが外国人で、桜の言葉に驚き振り返るものは皆無だった。店員もプロなので、ちらりと視線を投げた以外のリアクションはない。
そんな中、真剣なまなざしで壁面の陳列棚を凝視している少女がいた。少女は背を向けているので、桜が顔を見ることはできない。
「あの……」
細くて白い指がボーダーの長袖からちらりと覗く。そのまま掌がひらひらと振られた。どうやら、レジの辺りにいる店員を呼びたいようだ。
桜にちらりと視線を投げた男性店員が少女に掌の動きに気づき、素早くレジを離れ歩み寄る。
「はい、何かお探しでしょうか」
「あの……以前ここにあった、ZOOM505は……」
ZOOM505は、トンボ鉛筆が三〇年以上にわたり販売を続けている、高級水性ボールペンだ。確かに、指先が差す棚の中には、ZOOM505は並んでいない。
「通常の商品でしたらこちらに……」
「いえ、定番のじゃなく、METAのほうが……」
店員が小首を傾げる。少女は慌てて言葉をつけ足す。
「あ、えーと、今年の新柄の、黒いモデルのほうで……」
店員はいったんレジに戻り、年嵩の店員に何かを訊いている。黒ずくめの少女は、ポニーテールを揺らしながらそれを半目で見守っている。
次第に額から汗が流れ出し、それが彼女の頬にも伝うようになっていた。
「お待たせ致しました。当店ではどうやら販売終了してしまったようでして……」
そこから先は上の空だった。店員が「別の店舗の在庫を確認しましょうか」と告げているのだが、少女の耳には届いていない。
「判りました。ありがとうございます」
そう機械的に告げ、少女は陳列棚から離れ、ふらふらと歩き始める。
「あの! すいません!」
桜は店員の手が空いたことを察知し、大きく手を振ってからおもむろにアネロを降ろし、中からクルトガを取りだした。
「文房具詳しくないんですけど、これの代わりになるペンが欲しいんですわたし!」
「シャープペンシルがよろしいですか」
店員は微笑みながら桜に近づいてくる。
「何でもいいんです! 店員さんのお薦めってありますか?」
「お薦め……ですか……」
店員は顎に手をやり、視線を斜め上に投げうーむと呟いた。あまりこういうやりとりをする客はいないのだろう。唐突なリクエストに、どう切り出していいものか考えあぐねている様子がありありと見て取れるリアクションだ。
「ごめん」
その店員と桜を押しのけるような格好で、少女が通路を抜けようとする。狭いので、どうしても身体が触れ合ってしまう。桜はその姿を見て、また大声を上げてしまった。
「あ! あなた、さっきわたしにぶつかってきた黒豹少女!」
「黒豹……?」
少女は額から流れる汗を取り出したハンカチで拭い、桜を見上げる。
桜の身長は一六二センチ。
対して、少女は一五六センチ。
視線は自然と上目遣いになる。
「さっきも泣いてたみたいに見えたけど、それって汗だったんだ! びっくりしちゃったよ、わたし!」
「……?」
少女には「さっきも」の意味が判らない。
ハンカチをしまい、少女は視線を手にしたクルトガに向けた。
「ずいぶん筆圧が強いな」
「あれ? わかる? そうみたいなの、高校の頃はあんまり気にしてなかったんだけど、さきっぽが折れ曲がるくらいには強いみたいね!」
少女はごく自然な動きで右手を差し伸べた。桜はまるで吸い込まれるように、その手にクルトガを渡していた。
「普段から芯は長く出すのか? 書いてるとき、芯そのものが折れる?」
「いやあー、そんなちゃんとは憶えてないけど、がちゃがちゃ出す癖はないと思うよ! あと、確かに芯が砕けることはあった! 試験の時とか、最近よく言われる先輩からすぐメモ取れ! とか急かされるとき!」
少女は壊れたクルトガを眺め、しげしげと眺めている。
「で、これしかペン持ってないから、その先輩からボールペンのひとつも持ってないのか莫迦! それでよく仕事できるな! ってよく叱られるのよね、わたし!」
少女が目を上げた。口が菱形になっている。どうやら桜の外観から、彼女を高校生あたりだと踏んでいたらしい。
「え、社会人……」
少女は「それで?」と続けそうになってつい口を押さえてしまう。
「うん! この春に就職したばっかり! 高校でもノートってシャーペンでしか取ってなかったし、色つけたりするセンスが皆無で、他のペンとかぜんっぜん興味なかったしね!」
桜はそんな少女のリアクションの意味に気づかず、どんどん自分語りをつなげていく。
「でもね、いまの会社に就職って、わたしホント仕事できなくて駄目なんだけど、係長にノート書け、仕事のこと以外でもいろいろ書けて言われていま続けてるんだけど、書くのがだんだん楽しくなってきたのね! そこで今日、シャーペンが壊れちゃって、今日書くためのペンがなくなっちゃってね! 電車で一時間かけて帰るから、今日ここでどうしてもペンが欲しいんだけど、どれにしたらいいかぜんぜん判んなくって!」
「……同じものじゃなくてもいいのか?」
桜は少女に訊かれ、ぶんぶんと首を縦に振ってみせた。
「ぜーんぜん違うものでもいいよ! シャーペンじゃなくてもいい! あ、でも、書き間違うことがたくさんあるから、シャーペンのほうがいいかなあ……」
「いくらまで出せる?」
少女に言われるがままに、桜はアネロから長財布を取り出して残額を確認する。
「うんとね、とりあえず今出せるのは、一〇〇〇円まで……かなあ」
「シャープペンシルだったら、あなたの筆圧を考えたらこれ」
少女がすっと手を伸ばす。その先には、シャープペンシルの棚がある。吊り下げられていたブリスターパックのひとつを取り、桜の前にかざした。
「ゼブラのデルガード。三ノック以内だったら、どんな筆圧をかけても絶対に折れないシャープペンシル」
「ひょえー! それはすごい! わたしみたいに筆圧高い系女子にうってつけじゃないですか!」
桜は手渡されたパッケージをしげしげと見つめ、歓喜の声を上げる。
「あ、でも、社会人なのか」
少女は言うが早いか、シャープペンシルの棚を離れ、別の棚からまた違う製品を持ってくる。
「ノートに書くときはシャープペンシルがメインかもだけど、それ以外にペン使うことだってあるか。だったら、赤黒二色のボールペンがいっしょになったこっちのほうが社会人向きだな」
「おおー! 二色ボールペンってやつかー! それもちょっと高級なバージョンで!」
桜はそのパッケージも受け取り、裏面の説明を読みふける。
「え! これもデルガードなの? 折れないシャーペン、中に入ってんの?」
目を丸くした桜は、その視線をパッケージの説明書きから少女に投げる。少女はその眼圧にやや気圧されながらも、細い指を立て講釈を垂れる。
「デルガード+2S。内蔵しているシャープユニットは超小型デルガード。通常のデルガードと同じように芯が折れない機構が、その先端の小さなユニットに詰め込まれてる。ボールペンはゼブラ独自のエマルジョンインク。エマルジョンは正確に言えば油性じゃなくて、油性インク七割に水性インク三割を配合した油中水滴型インク。こうして一本にまとまってれば、持ち歩きも都合いいし、他のペンを探す手間も省ける」
「すごい! わたしがよくものをなくすことまでお見通しとは!」
桜は凄い勢いで、少女の背中をばんばんと叩く。少女は小さく「うう」と息を吐いた。
眼圧強いままの目を、桜は隣で圧倒されている店員に向けた。
「これください!」
「あ、はい……ではレジまでどうぞ」
レジ前に立ち、会計に入ろうとした桜が振り向くと、黒衣の少女はすでに店内から姿を消していた。
「え? ちょっと、なんでいないのあの子?」
「一二〇〇円に消費税で、一二九六円でございます」
「超えてんじゃん!」
桜は支払いを済ませ、慌てて店を飛び出す。
黒い少女はアニエスベーの角を曲がり、中央通りに向かって歩いて行く最中だった。桜は彼女に追いつくべく駆け出した。
中央通りに出た桜は周囲を見渡す。そして横断歩道を渡った向かい側──カルティエの横を歩く少女を発見し、大声で叫んだ。
「ちょっと! 予算一〇〇〇円って言ったよね、わたし!」
まさかの大声に、少女は立ち止まる。
「ねえ! 名前、教えてよ! わたし、秋山桜!」
「……一面識もないのに、今どきプライベートをこんな往来で教える莫迦がどこにいる」
少女は振り返り、手だけ振ってそれに応えた。
「また! どこかで! 会おうねー!」
その声を背後で聴きながら、少女は早足で歩き出す。
──つまらないお節介を焼いてしまった。
深澤海はZOOM505METAを求め、銀座ロフトへと向かった。 -
第一章
東京ホワイトアウト2020
1
深澤海の朝は早い。
いつも目覚ましは五時半に鳴る。
iPhoneのアラームを止め、彼女は眠い目をこすりつつ起床する。
最初にすることは、二度寝を防ぐための布団収納だ。掛け布団と敷き布団を折りたたんで押し入れの上段に、マットレスを下段に収納する。板間にラグが敷いてあるだけのシンプルな床が、彼女の決意を讃えてくれる。
それからパジャマ代わりのスウェットを脱ぎ、部屋着であるロングTシャツとスキニーのストレッチジーンズに着換え、さらにクリマプラスのプルオーバーを着込んでから洗面台で軽く顔を洗う。目の中に水を入れて気合いを入れるのが彼女流の、覚醒めの仕上げだ。
そこからちいさなキッチンに移動し、ガスコンロにハリオのドリップケトルをかけて湯を沸かす。上京してしばらくはミネラルウォーターを買っていたが、今ではすっかり東京の水道にも慣れた。
手回しのセラミックコーヒーミルに、きのう買ってきたばかりの珈琲豆を投入する。今回の豆は、グァテマラ・ウェウェティナンゴだ。シティローストで焙煎された豆が、ミルの中を踊る。
ゆっくり、等速度にハンドルを回転させる。ごりごりという豆の挽かれる音が、狭い室内に鳴り響く。手応えがなくなったら挽き上がりだ。
サーバーの上にドリッパーを置き、ペーパーフィルターを敷く。最近キーコーヒーの円錐ドリッパーに変えたのだが、そのおかげか、下手な海でも美味しい珈琲を淹れることができるようになった。
湯が沸き、ケトルから盛大に湯気が湧き出る。海はガスを切り、ミトンでそっとケトルの柄を持ち上げる。
そして真剣なまなざしで、珈琲に湯を注ぐ。
ふわっと粉が膨らんだ。
「ふへへ……」
相貌が崩れる。
──今日は上手くいった。
それから約一分間は、蒸らしの時間だ。
海はそこで、古ぼけた木枠の窓越しに外を見た。
今朝は雨が振っている。昨晩の天気予報では雪になるかもしれないと言っていたことを、海は思い出す。
三月の最後の日曜日とは思えないほど、部屋は冷え切っていた。もこもことボアの生えたルームシューズの中の素足が冷える。心なしか、息も白いような気がする。プルオーバーだけでは足りず、海はさらにプラズマ1000のダウンベストをクローゼットから引っ張り出して着込んだ。靴下も出して履いた。
そうこうしているうちに蒸らしの一分間は終わり、彼女は改めて粉の上に湯を落とし始める。
──あたしでもにやけることがあるんだ。
海は思う。
海がひとり暮らしのこの部屋で笑うことは、めったにない。
あるとすれば──
珈琲をうまく淹れることができた時と。
万年筆で文字を書いている時と。
そして──桜から来た手紙を読んでいる時と。
その三つくらいしかないのだ。
──しばらく会ってないな。
珈琲を淹れる手を止め、ケトルを一度コンロに置くと、海は指折り数え始める。
昨年五月のゴールデンウィーク最終日。桜──秋山桜と初めて出会ったのは、銀座の伊東屋だった。
それからパイロットコーポレーション平塚工場にある蒔絵工房で偶然再会したのが、七月。
そこで意気投合し、実家のある福島市のペントノートで彼女の妹と妹の友人とともに会ったのが、八月。
──あれからリアルでは会ってないのか。
意外な気がした。
八月に会って以来、桜は定期的に手紙をくれるようになった。月に二度ほどの頻度だったし、その内容は他愛もない日常の出来事をただ綴るものだった。最後は必ず「また会いたいね」で締められていた。海も手紙をもらえば、必ず返事を出していた。
たまにLINEで写真が送られてくることもあった。だがこちらは月に一度もない。クリスマスと正月、あとは家族旅行をしたという写真が一度あった程度だ。来れば海もコメントは返していたが、海から進んで連絡することはなかった。通話をしたことは一度もない。
何となく、それでいいような気がしていたのだ。
このSNS時代の濃密な繋がりからすれば、それは疎遠と言われても仕方ないほどの密度かもしれない。だが、海にはその距離と頻度が心地よかったし、それでも桜のことを忘れたことなどなかった。
──不思議なやつだよな。
思う度に、彼女の笑顔を明るい声が脳裏に浮かんでくる。まるで昨日あたりに会って話したかのような、鮮明な錯覚に陥る。そして、その錯覚で海は満足してしまう。
だから、あえて桜に会いたいとは思わないし、桜に対して積極的にアプローチをしたいとも思わない。
少なくとも、今年の一月までは、そうだったのだ。
湯を落とし終え、サーバーに溜まった珈琲を横目に、海はケトルに残った湯をマグカップに注ぎ込む。
ケトルをしまい、湯を捨て暖まったカップに、改めて珈琲を注ぎ込む。芳醇な香りが、彼女の鼻腔をくすぐる。
──すでに美味しい。
窓際に設えた古いライティングデスクにマグカップを置く。朝食は、珈琲豆といっしょに買ってきたプレーンのベーグルだ。キッチンに戻った海はまな板とパン切りナイフを出し、ベーグルを横から切ってふたつにする。冷蔵庫からレタスとスライスチーズを取り出し、レタスを一枚千切って軽く洗う。白くて細い指を頤に当て少しだけ悩んだが、そのままチーズといっしょに半分に切ったベーグルに挟み込んだ。
皿に載せたベーグルサンドをデスクまで持ってきて椅子に座り、背筋を伸ばし改めて手を合わせ心の中で「いただきます」を言う。目を上げると、雨粒が白い塊になりつつある様が見えた。
「ホントに雪になるのか……」
呟きつつベーグルを頬張る。やっぱり温め直したほうがよかったか──と思うが、海はそのままばりばりと食べ続けた。
──桜、今どうしているかな。
視線を窓から机上に戻す。
整理されたデスクの上に出ているものは、ふたつしかない。
グリーンのジッパーで縁取られたつくしペンケースと、測量野帳だ。
机上にあるつくしペンケースはジッパーが全開になっており、ぱっくりと開きの状態になっている。
左ポケットには、ぺんてるのオレンズメタルグリップリニューアル〇・二黒軸、ゼブラのブレン3C黒軸、三菱鉛筆のユニボールワン〇・三八黒軸、トンボ鉛筆の蛍コートピンクとイエロー。 右ポケットには、ミドリの厚さを測れる定規黒とクツワのペン磁ケシ、オルファのリミテッドMAカッター。
そしてポケットに収められてない状態でペンケース上に置かれている、黒い万年筆。
海が昨年七月にバイト先の小説家・冬将軍先生からプレゼントされた、セーラー万年筆のプロフィットシータだ。
「ふへへ……」
万年筆のキャップを回転させて外す。そこから出てくる大型の金ペンに、また彼女は相貌を崩してしまうのだ。
プロフィットシータに出会った時、海は「これはわたしの推しペンだ」と直感した。一生を添い遂げる相棒だと信じた。
そして事実、シータは彼女のもっとも使用するペンとなった。桜への手紙も、すべてシータでしたためられていた。
だが、不思議なものだ。万年筆という道具の性能で言えば、プロフィットシータには何の落ち度もない。海にとって一〇〇パーセント信頼の置けるペンだった。かといって、海の頭の中から、銀座伊東屋でのあの出逢いの記憶が消えてしまったのかと言うと、それも嘘になる。
いつかは手に入れたい、黒光りする大型のボディ。
あの大きな金ペンは、どんな書き心地なのか。
あの時、あのペンは触れただけだった。
書き心地までは知らないのだ。
まさかと思うが、あのペンがもしシータ以上の書き心地で、シータ以上の安心感を与えてくれて、シータ以上の存在になるとしたら──そう思い、しかし手許にあるシータを見ては頭を振る。そういう夜をいくつも超えてきた。
シータで書くと、あの万年筆を思い出す。
そして、今年の一月の出来事を思い出す。 -
1
それまでも、おしゃべりな人間だという自覚はあった。
クラスで目立つ存在ではない。勉強は中の下、運動はからっきし。容姿は凡庸で、大きな眼鏡をかけ癖の強い黒髪をわさわささせている。中肉中背でメリハリのない体躯で、流行には鈍感で、好きな服のブランドもないし、アイドルやタレントやスポーツ選手を追いかけることもない。では映画やアニメや漫画は、と言われてもクラスで流行っているものを囓る程度。好きな男子ができた試しもない。
寺島まゆは、「好き」という激情を知らぬ中学生だった。
唯一好きと自覚できるのは、おしゃべりだけである。
特に興味ある話題を持っているわけでもないのに、とにかく級友に話しかける。些細なことで笑い、泣き、突っ込みを入れ、突っ込み返される。
兎にも角にも、まゆはしゃべらないと気がすまない性質だった。
八月、塾の集中講義を受けた際にまゆは「君のおしゃべりは授業を妨害する」と言われ、二日目以降の参加を拒否され授業料を封筒で突っ返された。
まゆは、ここではじめて不安になる。学校でももしかしたら、みんなに迷惑がかかっていたのでは──夏休みが明けてクラスメイトに正すと、全員が全員、半笑いを浮かべながらこう言うのだ。
「いやほら、まゆはしゃべってないと死んじゃうでしょ。たぶん。少なくとも私はそう思ってた」
わたしは皆の優しさで生かされている──まゆは大いに反省し、試しに九月の一ヶ月間は授業中、意識して黙ってみることにしたのだ。
そしてそこで、彼女は気づく。わたしは口でしゃべってなくても、脳内でずーっとしゃべっている──思考を会話として、まるで誰かに話しかけているような感じで、ずーっとずーっとしゃべり続けている。
黙るとどうなるかは判った。しかし、友人の言うこともまた事実だった。彼女は授業が終わるや否や、休み時間じゅう息継ぎも惜しんでしゃべり続けた。脳内に響いている言葉を、溜まってしまった言葉を、彼女は吐き出さねばならなかったのだ。
塾は行きづらくなって辞めてしまった。両親は迫る高校受験のことをたいへん心配したが、最終的には通信教育で補うことに同意してくれた。自宅で問題集を解きながらなら、どれだけしゃべっても周囲に迷惑はかからない──まゆもそう思っていた。
だが、違うのだ。まゆは独り言を言いたいのではなかった。彼女は、誰かに言葉を聞いて欲しくてしゃべっているのだ。自室でぶつぶつ呟きながらテキストを埋めていっても、まゆの心はまったく晴れない。それどころかフラストレーションが溜まり、爆発しそうになるのだ。
なので彼女は、代替案を考えた。
両親としゃべる。
──最終的には小言を返されるようになって、嫌になる。
友人と電話する。
──互いに受験生である。相手もいい顔をしなくなった。
しゃべってもいい塾を探す。
──そんなものはない。
学校で「しゃべり溜め」ができるか試す。
──無駄な努力というか、帰宅してもっとしゃべりたくなる自分を抑えきれなくなった。
語りかけ続けてもいい家庭教師を募集する。
──家庭教師は三日目に怒って来なくなってしまった。
そんな中、いくつか試してみた案のうち、ひとつだけ奏功したものがあった。
ラジオである。
ラジオを聴いて、それに応える。パーソナリティーに話しかけるのだ。もちろん、まゆの言葉に対する直接的な返事はない。だが、まゆはまるで会話を楽しむように、ラジオに向けて言葉を発することができた。彼女の脳内では、それは一方通行の会話ではないと認識されているようだ。
ラジオはリスナーに寄り添う、と言われている。それは、テレビにはない特徴だった。中でも若者向けの投稿番組は、よりリスナーに向けて言葉を発する。まゆは、ラジオから流れてくるその言葉が自分個人に向けてでないと判っていても、他の番組よりシンクロ率が高いと感じていたのだ。
ナイタークッションだったローカル放送局の投稿番組が終了したときは悲しかったが、翌月彼女は運命の出会いを迎える。
一〇月から、『青春スタジオ・トゥエンティーワン』が始まったのだ。
月曜日から金曜日までの帯番組で、毎晩二一時から一時間の構成だ。東京にあるラジオ首都をキーステーションとし、全国のAMラジオで聴くことが出来る。受験生を応援する内容で、日替わりのパーソナリティーがそれぞれの特徴を持って番組を作り上げていた。
まゆのお気に入りは、水曜日の若林アナだった。入手一年目の新人だが、新人であるが故のフレッシュさと受験生への年齢の近さもあり、まるで自分のことのように受験生の気持ちを代弁してくれる佳き姉的な存在だった。
そして他のバーソナリティにないコンテンツが、まゆの興味を一段と引いたのだ。
若林アナは、受験生の勉強に役立つ文房具について、毎週五分ほどを割いていた。
それは最新文房具というよりは、彼女が使ってきて良かったと思う文房具がメインだった。
まゆは若林アナがお薦めする文房具を総て購入し、使い込み、そして──どんどん文房具が好きになっていった。
「こんばんは。かなり寒いですね。みんな、風邪ひいたりしてませんか? 元気出して行きましょう。高校受験の子たちはもうすぐ受験ですね。大学受験もあとちょっと。センター受ける子はラストスパートかあ。めげない、負けない、諦めない! 今夜も勉強しながら、ちょっとだけ耳を傾けてください。『青春スタジオ・トゥエンティーワン』、水曜日のパーソナリティーはラジオ首都の若林青葉です」
まゆの耳に、今夜も明るくすがすがしい声が届く。部屋はオイルヒーターによって暖房されているが、それでもまだ寒い。まゆはジャージの上からフリースを着込み、背筋をぴんと伸ばしてきっちりと椅子に掛けている。
「ありがとう青葉さん、わたし頑張るよ!」
まるでそれが自然な会話であるかのように、まゆはパーソナリティーに話しかける。その間でも目はノートから離れないし、シャープペンシルは走り続けている。
その手にあるのは、黒光りする重厚な製図用シャープペンシル──ぺんてるのグラフ1000フォープロだ。
あれから四ヶ月、まゆは今まで持っていたシャープペンシルをすべて抽斗に仕舞い込み、ただひたすらこのグラフ1000で受験勉強に勤しんでいた。
まゆは若林青葉という新人アナウンサーの語りから、彼女は自分の本当の「好き」を見つけつつあった。
「ラジオ、文房具、おしゃべり。いつかは東京に出て、若林さんと文房具についておしゃべりしてみたいなあ……」
そんな淡い夢を見るようになった寺島まゆは、この時まだ中学三年生である。 -
プロローグ 二〇二一年一〇月一六日(土曜日)
「『居酒屋〈喜望峰〉バッカス支店』、開店だ〜!」
賑やかなテーマソングが流れ出す。パーシー・フィエスの「ペリカン・ダンス」だ。
そして八秒ほど経ち、音楽が絞られる。
「いらっしゃ〜い。居酒屋〈喜望峰〉へようこそ〜。あたしが店長のバッカス、三〇代独身だよ〜。うっさいわ、相手ならここにいるから!」
ハスキーで気だるげな声が、ラジオから流れ出す。
「あはははは! いらっしゃいませー。まゆ、ぴっちぴちの女子大生でーす。わたしはバッカスの嫁になった憶えはないんだけどなー」
こちらは元気いっぱい、若さを満喫した声だ。
彼女らの掛け合いの背後には、ざわざわとした店内の音がかすかに重なる。かちゃかちゃとグラスが鳴らされる音。店の隅からは、わははと太い笑い声が聞こえてくる。
そう、ここは陽気な仲間が集まる居酒屋──そういう設定のラジオ番組。
「しかしまゆも文房具のコーナーだけだったはずなのに、気づいたらオープニングからエンディングまでずーっとずーっと喋ってるよね〜。いやしかも困ったことに、キミ人気あるんだよホント」
「なんで困るんですか」
「あたしより人気あったらあたしが困るだろ〜! メールも来てるんだから〜! ラジオネーム、まーくつーぐれいおんさんから。バッカス姐さん、まゆちゃん、こんばんは」
「こんばんは!」
「小生はラジオが好きで、いわゆる県域放送はAMでもFMでもたいてい聴いてますし、コミュニティFMも大好きです」
「県域って何ですか」
「まゆ、話の腰を折るのが上手いねえ〜。ここでいう県域放送っていうのは、簡単に言えば県内ぜんたいに電波が届く放送局のこと。東京で言うと、ラジオ首都みたいな大御所」
「ほほう」
「永年いろいろ聴いてきましたが、中でもこの『居酒屋〈喜望峰〉』はトップクラスの乱痴気騒ぎで、まるで若い俺たちの全部を吐き出しているみたいで大好きです」
「ええ……どういうこと?」
「東京ビートルズに『ツイスト・アンド・シャウト』って歌があってだな……まあいいや。で、バッカス姐さんのスローで気の抜けた語りを上回るまゆちゃんのボケと謎突っ込みと弾けた笑いが大好きなのです。まゆちゃん、いつまでもその素人っぽい天真爛漫さをなくさないでくださいね〜、と」
「ありがとうございます……これって褒められてるのかな……」
「べた褒めですね〜。バッカス読んでて恥ずかしくなっちゃうわ!」
「マジすか! あはははは!」
「それ! その〈まゆ笑い〉がキミのチャームポイントだよ! というわけで、曲はもちろんこれだ!」
曲紹介なしに、いきなりイントロが挿入される。東京ビートルズの「ツイスト・アンド・シャウト」だ。
口にしたビールの缶をいったん離し、寺島まゆは凝っとラジオを見つめる。
まゆは、自分が出ているラジオ番組を聴くのが好きだった。『居酒屋〈喜望峰〉バッカス支店』は生放送ではない。ラジオ番組は生放送が目立つので勘違いされやすいのだが、収録され編集された録音済みの番組も数多くある。だからまゆは自分が出演しているラジオを、六畳のアパートで聴くことができるのだ。
それは、ちょっとしたきっかけからだった。大学進学のために東京にやってきて、最初にまゆを襲ったのはコロナ禍による登校不能と自宅からのリモート授業だった。ひとと話せない彼女の鬱屈を晴らしてくれたのが、区によって支給された防災ラジオであり、そこから流れるコミュニティFM〈みなさまのエフエム〉だったのだ。
まゆはその魅惑的な放送に酔いしれ、不本意ながら興奮状態で番組にメールを出し、それがパーソナリティであるDJバッカスの目に留まって、こうしてリスナーだった番組に登場することになったのだが──
「バッカス、相変わらずリードがうまいよなあ……」
〈インドの青鬼〉を机上に置き、まゆは空いた両手を顎の下に組んだ。
「ホント、上手……」
その組まれた指の上に、顎を乗せる。目はラジオから離さない。ややうっとりとした目つきのまま、焦点をあえて曖昧にして想いにふける。
最初は、まゆの文房具好きが買われての登場だった。バッカスの番組『居酒屋〈喜望峰〉バッカス支店』は六〇分番組だが、その中に「とっておきの情報コーナー」と名づけられた時間帯がある。バッカスが毎回、自分にとっての情報をセレクトして話すリスナー無視のコーナーだったのだが、まゆが聴き始めたころからそこは常に文房具を紹介するコーナーになっていた。
まゆはそのバッカスの文房具語りをいたく気に入り、わたしも文房具大好き、自分もラジオで語ってみたい──と大それたメールを送ってしまったのだ。
そして念願叶って彼女はバッカスの番組で自らの文房具体験を語り、それがレギュラーとなって、コーナー名は「バッカスとまゆの秘密の文房具部屋」に変わった。
ところが、まゆの人気は彼女の意に反し急上昇。まゆにもっと登場の場を与えて欲しいというリスナーのメールが相次ぎ、いつの間にかまゆは番組全体のアシスタントとなり、そしてこの秋からはついにツインパーソナリティの地位にまで登り詰めたのである。
だが、まゆはそういった自分の境遇について、大した興味はなかった。そもそもまゆは「有名になりたい」という野心はなく、ただひたすらに「喋りたい」だけなのだ。その「喋りたい」を「つねにラジオに向かって独り言を言う異常者」から救済し合法化してくれるのが、ラジオパーソナリティという立場だというだけのことだ。
彼女もバッカスも覆面DJという扱いで、バッカスはプロでありながら顔写真すら番組ホームページに掲載されていない。またまゆも、学生であることから本名や素顔をネットに上げたことはなかった。熱心なファンによるネット上での捜索活動も漏れ伝わってきてはいたが、幸いなことに今のいままで身バレしたことはなかった。
もっとも、まゆはそこも達観している。身バレしたところで大した影響はないだろうし、自分は美人でも魅力的な外観でもない。そもそも区内でしか聴けないコミュニティFMのいち番組に出ているだけでファンから追っかけられるようなことにはならないだろう、と高をくくっていたのだ。
ラジオの聴取率は低い。テレビとは較べものにならない。さきほど放送で言われていた県域放送のような大規模なラジオ局の番組であったとしても、リスナーは限定的だ。ましてや、まゆは芸能人ではない。ただのはしゃいでいる女子大生なのだ。ラジオを続けて永いバッカスですら、ファンレターと呼べるものは数えるほどしか来ない世界であることを、まゆはこの一年あまりで目の当たりにしている。
だから、わたしは気負うことなく、のびのびとやっていられるのだ──まゆはまた一口、〈インドの青鬼〉をすする。芳醇な香りが鼻腔を擽る。ほぼ常温だが、まゆはこの香りと味わいが好きだった。呑むと、バッカスの側にいるような気持ちになれるからだ。
思い出と直結した味や香り──まゆはまたピントをラジオに戻す。
すでにCMが明け、次のコーナーが始まっていた。
「さて、緊急事態宣言があけて、ようやく世の中に動きが戻ってきましたね〜。この夏はホントやばかったよね〜、感染者も東京は最大でいちにち五〇〇〇人超えたこともあったもんな〜。それが今や連日一〇〇人台で減少中、と。いやまあホントよかったですよ〜。みなさまもまだまだ気を抜かず防衛中かと思いますけど、居酒屋〈喜望峰〉リアル店舗は酒類提供を再開してみなさまをお待ち申し上げておりますよ!」
「こないだ、はじめてお伺いしたんですよねリアル店舗。バッカスといっしょに。あれ美味しかったなあ、岩下の新生姜の豚肉巻き!」
「ああ、いいねえ〜。ビールのお供に最適だよね〜。まゆは自宅ではお酒やるんだっけ?」
「わたしは……ラジオを聴くときだけ。それも、バッカスの番組を聴くときだけって決めてるんです」
「ほえ? それまたなんで?」
「もちろん、お酒に流されないため……自宅でだらだらと呑まないためなんですけど。そうやってルールを決めておけば、節制できるでしょ?」
「くわぁ、真面目だねえキミは。あたしゃ暇さえあれば呑んでるよ〜。だから自他共に認めるバッカスなんだけどさ〜」
「お酒もほどほどにね……でも、わたしはお酒が好きだからお酒を呑んでるんじゃないんです」
「どゆこと?」
「わたしは、お酒を呑むとバッカスを思い出すんです」
まゆはくすりと笑う。
聴いているまゆも、くすりと笑う。
「はじめてお酒をいっしょに呑んだ相手がバッカスで、はじめてわたしの気持ちを真剣に聞いてくれたのがバッカスで、はじめてラジオで喋ったのも相手がバッカスで──その時に呑んだお酒の香りや味が忘れられないんです。呑むと、バッカスを思い出すんです。だから、呑むときは、バッカスといっしょのときだけ。自宅で呑むときは、バッカスのラジオを聴くときだけ」
またまゆは笑う。リスナーに好評の「まゆ笑い」ではない。もっと作為のない、もっと自然な笑いだった。
そんなまゆの笑いに、まゆは真剣に答えるのだった。
「ラジオでそんなこと言っちゃだめだよ、まゆ……」
軽く頬が火照っているのは、酔いのせいなのか。
それとも。
「また明日、バッカスには会えるんだから……」
心はすでに、明日の収録に飛んでいた。