たこぶろぐ

ブンボーグA(エース)他故壁氏が、文房具を中心に雑多な趣味を曖昧に語る適当なBlogです。

2020年5月新刊:「東京ホワイトアウト2020」冒頭試し読み



  第一章
      東京ホワイトアウト2020


   1


 深澤海の朝は早い。
 いつも目覚ましは五時半に鳴る。
 iPhoneのアラームを止め、彼女は眠い目をこすりつつ起床する。
 最初にすることは、二度寝を防ぐための布団収納だ。掛け布団と敷き布団を折りたたんで押し入れの上段に、マットレスを下段に収納する。板間にラグが敷いてあるだけのシンプルな床が、彼女の決意を讃えてくれる。
 それからパジャマ代わりのスウェットを脱ぎ、部屋着であるロングTシャツとスキニーのストレッチジーンズに着換え、さらにクリマプラスのプルオーバーを着込んでから洗面台で軽く顔を洗う。目の中に水を入れて気合いを入れるのが彼女流の、覚醒めの仕上げだ。
 そこからちいさなキッチンに移動し、ガスコンロにハリオのドリップケトルをかけて湯を沸かす。上京してしばらくはミネラルウォーターを買っていたが、今ではすっかり東京の水道にも慣れた。
 手回しのセラミックコーヒーミルに、きのう買ってきたばかりの珈琲豆を投入する。今回の豆は、グァテマラ・ウェウェティナンゴだ。シティローストで焙煎された豆が、ミルの中を踊る。
 ゆっくり、等速度にハンドルを回転させる。ごりごりという豆の挽かれる音が、狭い室内に鳴り響く。手応えがなくなったら挽き上がりだ。
 サーバーの上にドリッパーを置き、ペーパーフィルターを敷く。最近キーコーヒーの円錐ドリッパーに変えたのだが、そのおかげか、下手な海でも美味しい珈琲を淹れることができるようになった。
 湯が沸き、ケトルから盛大に湯気が湧き出る。海はガスを切り、ミトンでそっとケトルの柄を持ち上げる。
 そして真剣なまなざしで、珈琲に湯を注ぐ。
 ふわっと粉が膨らんだ。
「ふへへ……」
 相貌が崩れる。
──今日は上手くいった。
 それから約一分間は、蒸らしの時間だ。
 海はそこで、古ぼけた木枠の窓越しに外を見た。
 今朝は雨が振っている。昨晩の天気予報では雪になるかもしれないと言っていたことを、海は思い出す。
 三月の最後の日曜日とは思えないほど、部屋は冷え切っていた。もこもことボアの生えたルームシューズの中の素足が冷える。心なしか、息も白いような気がする。プルオーバーだけでは足りず、海はさらにプラズマ1000のダウンベストをクローゼットから引っ張り出して着込んだ。靴下も出して履いた。
 そうこうしているうちに蒸らしの一分間は終わり、彼女は改めて粉の上に湯を落とし始める。
──あたしでもにやけることがあるんだ。
 海は思う。
 海がひとり暮らしのこの部屋で笑うことは、めったにない。
 あるとすれば──
 珈琲をうまく淹れることができた時と。
 万年筆で文字を書いている時と。
 そして──桜から来た手紙を読んでいる時と。
 その三つくらいしかないのだ。
──しばらく会ってないな。
 珈琲を淹れる手を止め、ケトルを一度コンロに置くと、海は指折り数え始める。
 昨年五月のゴールデンウィーク最終日。桜──秋山桜と初めて出会ったのは、銀座の伊東屋だった。
 それからパイロットコーポレーション平塚工場にある蒔絵工房で偶然再会したのが、七月。
 そこで意気投合し、実家のある福島市のペントノートで彼女の妹と妹の友人とともに会ったのが、八月。
──あれからリアルでは会ってないのか。
 意外な気がした。
 八月に会って以来、桜は定期的に手紙をくれるようになった。月に二度ほどの頻度だったし、その内容は他愛もない日常の出来事をただ綴るものだった。最後は必ず「また会いたいね」で締められていた。海も手紙をもらえば、必ず返事を出していた。
 たまにLINEで写真が送られてくることもあった。だがこちらは月に一度もない。クリスマスと正月、あとは家族旅行をしたという写真が一度あった程度だ。来れば海もコメントは返していたが、海から進んで連絡することはなかった。通話をしたことは一度もない。
 何となく、それでいいような気がしていたのだ。
 このSNS時代の濃密な繋がりからすれば、それは疎遠と言われても仕方ないほどの密度かもしれない。だが、海にはその距離と頻度が心地よかったし、それでも桜のことを忘れたことなどなかった。
──不思議なやつだよな。
 思う度に、彼女の笑顔を明るい声が脳裏に浮かんでくる。まるで昨日あたりに会って話したかのような、鮮明な錯覚に陥る。そして、その錯覚で海は満足してしまう。
 だから、あえて桜に会いたいとは思わないし、桜に対して積極的にアプローチをしたいとも思わない。
 少なくとも、今年の一月までは、そうだったのだ。
 湯を落とし終え、サーバーに溜まった珈琲を横目に、海はケトルに残った湯をマグカップに注ぎ込む。
 ケトルをしまい、湯を捨て暖まったカップに、改めて珈琲を注ぎ込む。芳醇な香りが、彼女の鼻腔をくすぐる。
──すでに美味しい。
 窓際に設えた古いライティングデスクにマグカップを置く。朝食は、珈琲豆といっしょに買ってきたプレーンのベーグルだ。キッチンに戻った海はまな板とパン切りナイフを出し、ベーグルを横から切ってふたつにする。冷蔵庫からレタスとスライスチーズを取り出し、レタスを一枚千切って軽く洗う。白くて細い指を頤に当て少しだけ悩んだが、そのままチーズといっしょに半分に切ったベーグルに挟み込んだ。
 皿に載せたベーグルサンドをデスクまで持ってきて椅子に座り、背筋を伸ばし改めて手を合わせ心の中で「いただきます」を言う。目を上げると、雨粒が白い塊になりつつある様が見えた。
「ホントに雪になるのか……」
 呟きつつベーグルを頬張る。やっぱり温め直したほうがよかったか──と思うが、海はそのままばりばりと食べ続けた。
──桜、今どうしているかな。
 視線を窓から机上に戻す。
 整理されたデスクの上に出ているものは、ふたつしかない。
 グリーンのジッパーで縁取られたつくしペンケースと、測量野帳だ。
 机上にあるつくしペンケースはジッパーが全開になっており、ぱっくりと開きの状態になっている。
 左ポケットには、ぺんてるのオレンズメタルグリップリニューアル〇・二黒軸、ゼブラのブレン3C黒軸、三菱鉛筆のユニボールワン〇・三八黒軸、トンボ鉛筆の蛍コートピンクとイエロー。 右ポケットには、ミドリの厚さを測れる定規黒とクツワのペン磁ケシ、オルファのリミテッドMAカッター。
 そしてポケットに収められてない状態でペンケース上に置かれている、黒い万年筆。
 海が昨年七月にバイト先の小説家・冬将軍先生からプレゼントされた、セーラー万年筆のプロフィットシータだ。
「ふへへ……」
 万年筆のキャップを回転させて外す。そこから出てくる大型の金ペンに、また彼女は相貌を崩してしまうのだ。
 プロフィットシータに出会った時、海は「これはわたしの推しペンだ」と直感した。一生を添い遂げる相棒だと信じた。
 そして事実、シータは彼女のもっとも使用するペンとなった。桜への手紙も、すべてシータでしたためられていた。
 だが、不思議なものだ。万年筆という道具の性能で言えば、プロフィットシータには何の落ち度もない。海にとって一〇〇パーセント信頼の置けるペンだった。かといって、海の頭の中から、銀座伊東屋でのあの出逢いの記憶が消えてしまったのかと言うと、それも嘘になる。
 いつかは手に入れたい、黒光りする大型のボディ。
 あの大きな金ペンは、どんな書き心地なのか。
 あの時、あのペンは触れただけだった。
 書き心地までは知らないのだ。
 まさかと思うが、あのペンがもしシータ以上の書き心地で、シータ以上の安心感を与えてくれて、シータ以上の存在になるとしたら──そう思い、しかし手許にあるシータを見ては頭を振る。そういう夜をいくつも超えてきた。
 シータで書くと、あの万年筆を思い出す。
 そして、今年の一月の出来事を思い出す。

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