たこぶろぐ

ブンボーグA(エース)他故壁氏が、文房具を中心に雑多な趣味を曖昧に語る適当なBlogです。

2019年8月新刊:「推しペンと旅するかい?」冒頭試し読み



   第一話
       情熱と冷静


 真新しいフロア内に、終業時刻を告げるチャイムが鳴り響く。
「今日はぜんぜん仕事が進みませんでしたあ!」
 五月最初の終礼は、桜の元気な敗北宣言で締められた。
「仕事どころか……お前、ぜんぜん駄目だよ……」
 それを耳にした先輩の竹林が、頭を抱えて呻く。
「まあまあ。今日は引っ越しが中心だったし、仕事に支障が出ているわけでもない。秋山、ゆっくりでもいいから確実に憶えていくんだ」
 そう告げると、業務係長の山栗は微笑みの表情を崩さないまま、毎日の日課を桜に課した。
「さて、秋山。今日のメモは?」
「はいッ!」
 桜は笑顔を崩さず、机上に拡げてあったキャンパスノートB5を取り上げ、ページを繰って中を読んで見せた。
「えーと、新しく支給された入館証を忘れないこと! ゴミは分別して捨てること! 入退館データは毎朝パソコンで確認すること! 机の上に物を出して帰らないこと! 女子ロッカーは整頓して使用すること!」
 ノートを机上に戻し、山栗に向け敬礼する。
「以上です!」
「足りないぞ秋山……さっき私が言ったこと、憶えてるか?」
 竹林が呻くように言う。桜は満面に笑みを浮かべ、振り返りつつ先輩に親指を立てた。
「忘れました! そういうタイプですからわたし!」
「はいはい終了終了。一八時までに退館しろよ。まえの事務所と違って、玄関ゲートを一八時までにくぐらないと駄目だからな」
 山栗はふたりにそう告げると、机上の書類をアルタナハードバッグに詰めて壁面に連ねられた書類用ロッカーに向かう。他の係員も、みな思い思いのバッグや書類ケースを持って係長の後に続いた。
 桜は手にしていたノートをアネロのリュックサックに放り込み、書類はそのままばさばさと抽斗に流し込んだ。竹林はぎょっとしたが、見ぬふりをして自分も書類をクリアホルダーごと抽斗に押し込む。
「そうだ、思い出しました! 先輩、これどうしましょうかね?」
 桜は笑顔で竹林に訊く。手には、シャープペンシルが握られている。
 三菱鉛筆のクルトガだ。
 書くたびに芯が内部機構で回転し、片減りを防ぎ先が尖った状態を維持し続ける画期的なシャープペンシルである。桜が中学一年から使っているものだから、六年物ということになる。キャラクター柄ではなくシンプルなピンク軸だが、問題はその先端だ。
 パイプが折れて曲がってしまってるのだ。
「え? いや、あの……お、おう……どうしようって、それもう書けないって、さっき言ってただろ?」
 竹林は抽斗の中を見られたのかと勘違いし、異常なほどに狼狽しつつ答える。
「筆圧高い方かな、とは思ってたんですよわたし」
 竹林はハンドバッグにスマートフォンを滑り込ませ、桜の言葉を無視し席を立とうとする。
「で、どうすればいいですかね?」
「新しいのを買えばいいだろ」
「どこで?」
 桜はかわいらしく小首を傾げて見せる。そういう一切の挙動が、竹林の気持ちをざわつかせる。
「どこでもいいだろ!? 文房具売ってるとこなら! ここは銀座だぞ、店なんかいくらでもあるだろ!」
「知りませんよ。だって銀座に来たの、今日が生まれて初めてなんですから」
 竹林は目をつぶり、首を振って眉間に皺を寄せる。
「会社を出ると、目の前が中央通りだ」
 そんな竹林を尻目に、山栗がヴィトンのネヴァーフルを肩に掛けつつ、桜に説明を加える。
「会社を出たところをすぐ左に曲がって、目の前の交差点を渡ると、銀座一丁目。しばらく歩いて行くと、赤いクリップのついたビルが見える。それが伊東屋、銀座界隈で一番上等な文房具店だ」
「さすが係長! 大人の女は違いますね! 憧れます! ブランドとかいっさい興味ないけどわたし!」
「上司に向かってそんな褒め方があるか……」
 頭を抱え、立ち上がる気力すら失せた竹林を尻目に、桜はリュックサックを背負うと、山栗に向けて敬礼した。
「では、お先に失礼しまーす!」
 竹林はそんな桜の背後に向け、ひらひらと掌を振ってみせる。
 山栗は一本に縛っていた髪を解き、それを右手で軽く梳きながら、桜が扉の向こうに消えていくのを見守った。
「全く何て言うか、疲れるヤツですねあいつは」
 竹林はようやく立ち上がり、山栗に軽く会釈しながらその横を通り抜けようとする。
「でも気持ちがいい子でもある。竹林だってあの子、別に嫌いじゃないだろう」
「そりゃまあ……」
 竹林は話しかけられ、立ち止まらざるを得ない。
「お前、何年目だ」
「六年目、ですね。最初の三年が営業、それから山栗さんの下について二年と一ヶ月です」
 山栗は、立ち止まった竹林の目を見る。
「入社したての五月って憶えてるか?」
 竹林は視線を逸らせ、LED照明の並ぶ天井をぼんやり眺めた。
「えーと、自分は営業職で入社しましたから、まだこの時期は研修中でした。四月いっぱいまでは座学と工場見学と……実務に繋がる講習は五月半ばの営業同行研修からでしたから……」
 山栗は竹林の視線が逸らされたことを知ると、右手を伸ばし机上にあった鏡を取り上げた。
「じゃ、見守ってやれよ。お前と同行した先輩営業だって、今のお前と同じような気持ちだったんじゃないか?」
「……ですよね……」
 髪の伸ばし具合をちらりと見ると、鏡をすばやく抽斗にしまい込む。
「それに私は、秋山を信じている。あいつは手で書くことを厭わない。だから、あいつはきっと、うまくいく」
 竹林は目を伏せる。
「そういうもんですかね」
「私がそうだったから、そう信じたいだけさ。じゃな」
 言うが早いか、グレーのパンツスーツの山栗は立ち止まる竹林の横をすり抜け、颯爽と扉の向こうに消えていった。
「それから竹林、抽斗は押し入れじゃないんだ。押し込めばいいってものじゃない」
 すれ違いざま呟かれた言葉に、軽く血の気が引く竹林であった。

 スレートブルーのウインドブラストベストと、漆黒のタンカー・デイパック。ベストから伸びた細い腕は、ボーダー柄のロングTシャツで覆われている。ジーンズはスキニーの黒、足許はジャックパーセルのモノクロームブラック。
 揺れるポニーテールも、濡れ羽色の黒。
 全体的に黒い。
 ただ、服から露出している顔と指先は、はっとするほど白い。
 その細い指先が、じっとりと汗ばむほどにデイパックのショルダーベルトを握りしめている。
 もう、五分ほど眺めているだろうか。
 深澤海の目は、ガラスケースの向こう側に釘づけになっていた。
「お探しの商品はございますか」
 スーツ姿の女性店員が、壁際で立ち尽くす彼女に向かい声を掛けつつ歩み寄ってくる。
 海は、背に冷たい汗が流れるのを感じた。
──焦るな、あせるな。あたしは見てるだけ。見てるだけなんだ。
「よろしければ、お出しいたしますけど」
 黒髪ストレートで豊かな胸の店員が、紅いルージュで彩られた唇をゆっくりと開き、海を誘う。
──あたしの今日のターゲットはこれじゃない。これじゃないんだ。
 ガラスカウンターから半歩、後退る。ポニーテールがゆっくりと左右に揺れる。それはまるで、彼女の心を現しているかのようだった。
 揺れる。
 揺れる。
 振り子のように、海の心も揺れ動く。
「いえ、その……」
──見るだけならタダだ。別に取って食われるわけじゃない。
 海は思い直す。堅く握っていたショルダーベルトから手を離し、ゆっくり、ゆっくりと指を伸ばす。
「えと……見るだけ……なんですけど……」
 その指先は、ガラスケースの中にある万年筆を示している。
「はい、お待ちください」
 店員は手早くポケットから鍵を取り出し、ガラスケースの錠を開けた。鍵をしまうと、代わりに取り出した白手袋を填め、その万年筆を取り出してみせる。
「どうぞ」
 海は受け取れない。
 指先は、それを指さしたまま固まってしまっている。
 のどもからからだ。
 半開きの口から、吐息と共にひとこと吐き出すのが精一杯だった。
「えと……触っても……いいんですか……」
「……どうぞ」
 店員は同じ台詞を吐く。
 憧れのペンが、ここにある。
──知ってる。
 憧れのペンに触れることができる。
──知ってる。
 触るだけならタダなのだ。見て、触って、おもむろに「今日は結構です。ありがとうございました」と告げて涼しい顔でフロアを去ればいいのだ。
──知ってる!
 それでも、やっぱり海は動けない。
 背だけでなく、額からも冷たい汗がだらだらと流れ出していた。
 脳の一番奥にある芯みたいなところが痺れているのを、彼女は自覚し始めていた。

 秋山桜はもうすぐ一九歳になる、社会人一年生だ。
 この春に高校を卒業し、地元である平塚市の企業に就職したのだが、その神奈川営業所が新本社建て替えによって銀座本社内に統合されてしまったのだ。自転車で通えることが桜にとって重要だったのに、たった一ヶ月で彼女は一時間の電車通勤を強いられる生活を余儀なくされた。
 桜の職業は、社内では営業業務と呼ばれている。その仕事内容は多岐にわたる。神奈川営業所にいた営業員たちの様々なサポートをするのが彼女の仕事だが、入社し配属されそろそろ一ヶ月が経過しようとしているにも関わらず、桜は仕事をまるっきり憶えられないでいた。
 あるのは空回りな情熱と、元気な返事だけだ。
 教育係である竹林稲穂が業を煮やし、山栗係長に泣きついたのが今から二週間前。竹林がOJT(現任訓練)を拝命して一週間と経っていない時期だった。
 山栗は、桜にノートと筆記具を持ってくるように告げた。翌日、彼女は高校時代に使っていたクルトガと余っていた新品のキャンパスノートを会社に持参し、上長の指示を仰いだ。
 要点は四つ。
 ひとつ、毎朝山栗係長から告げられたことをメモすること。
 ひとつ、竹林リーダーから注意されたことやアドバイスされたことをメモすること。
 ひとつ、終業後に今日の振り返りとして、山栗係長にノートの内容とその結果を発表すること。
 そして最後の一つは──今日の出来事、思いついたこと、なんでもいいのでノートに自分の言葉を残すこと。仕事中でもいいし、会社帰りでもいい。それは見せなくてもいい。
 桜は山栗係長の言うことを忠実に守った。
 それまでは、書くことといえばあくまで授業の一環であり、自らの人生では「学校生活が終わればほぼなくなるもの」程度に認識していた桜だった。だが、山栗係長に言われて毎日なにかしらノートに書きつけるようになってからは、少しずつではあるが書くことじたいが好きになっていた。
 永いゴールデンウィークが終わろうとしている五月六日──世間は休日であるが、桜たちにとってその日は銀座本社ビルへの引っ越し作業の日だった。仮社屋にいた旧本社の社員とともに、神奈川営業所の営業員と営業業務も、この日から銀座本社勤務となる。
 午前中は引っ越しの片づけで終わった。
 午後は社屋内の説明、新しい出退勤システムの説明、そして本社営業部と神奈川営業所から来たメンバーとの打ち合わせで二時間を費やした。
 打ち合わせが終わった後、席に戻った桜はパソコンの画面を覗き込み、「先輩、ウインドウズ10って判ります?」と効くばかりで、一向に仕事を始めようとはしなかった。
 桜は何もしなかったのではない。何もできなかったのだ。
 ゴールデンウィークの間に仕事の段取りをすっかり忘れてしまっていた。
 竹林は激怒した。いくらなんでも忘れすぎである。桜にキャンパスノートを取り出させ、最初のページから改めて読ませ指示し追記させ、四月分の記憶を取り戻させようとした矢先に──クルトガの先端が折れたのだ。
「折れちゃいましたね」
 ぺろりと舌を出す桜に、竹林の怒りは頂点に達した。
「折れちゃいましたじゃないだろー!? 他にペンの予備はないのかよ! 書けなくなったら今日の仕事は終わりなのか? 違うだろー!?」
「ないんですよ他のペン。あんまり文房具関心ないんで、わたし」
「せめてボールペンの一本や二本、別に持ってろよー! 社会人だろー!?」
 頭頂部から湯気を上げた竹林の奮闘むなしく、桜の銀座就業初日はそこでタイムアップとなった。
 竹林の怒りは理解できなかったが、桜自身も「しまったな」とは思っていた。
 これでは、今日の分のノートを書くことができない。
 自宅に帰れば、妹から筆記具の一本や二本、借りることはできるだろう。
 ただ、少しずつではあるが書くことが好きになっていた桜にとって、それは納得のいかない解決方法でもある。
──借りたペンで満足できるかなあ。
 口では「文房具に関心はない」と言うものの、彼女にとって筆記具はいつしか大切なものになっていたようだ。このノートを書き続けるなら、自分の気に入った一本を手許に置きたい。
──やっぱり、わたしのペンが欲しいよね。見てみて、よく判らなかったら、同じクルトガをもう一回買えばいいんだし。
 そうぼんやりと思いつつ、桜は山栗に教えられた通りの道を辿り、いつしか銀座伊東屋の前に立っていた。
 ガラスが大きい。でも、入り口はちいさい。
 一階には筆記具が見当たらない。エスカレーターの脇に店内案内があるが、ぱっと見てよく判らない。仕方がないのでカウンターで訊いてみると、どうやら三階まで上がると筆記具があるようだ。
 二階のレターセットのフロアを抜けて、もういちどエスカレーターに乗る。いきなり幅が狭い独り用になっているのに軽く驚きながらも、桜は三階に思いを馳せて顎をあげた。
 三階は──桜が思い描いていた文房具売り場ではなかった。
 木とガラスでできた什器がずらりと並ぶ、高級筆記具だけを扱ったフロアだったのだ。
 少なくともここには、自分の財布に入っている小銭で買える筆記具はない──それは彼女にも、直感的に理解できた。
 踵を返そうと思ったその瞬間──
「ぐはッ!」
 桜は小柄な少女と真っ正面からぶつかり合った。
 衝撃で肺から大量の呼気を奪われ視界を白くする桜と、そこから素早く離れていく電光石火の少女。
 薄れゆく意識の中で、桜はその後ろ姿を可能な限り脳裏に焼きつけようと、言語化を試みる。
──ちいさくて黒ずくめの女の子。揺れるポニーテールが黒豹の尻尾みたいだ。
 咄嗟に傍らのケースに手をつき転倒を逃れた桜は、軽い目眩を覚えつつも足許に力を込め脚を開いて踏ん張り、そして可能な限り大きく息を吸い込んでから背後を振り返った。
 黒い弾丸は、すでに階段のある空間に姿を消していた。
 今ならまだ追えるかもしれない。
 桜には、ぶつかってきた少女を追いかける義理はない。確かに接触事故に対し謝罪の一つもないことは引っかかりを憶えたが、自身が怪我をしたわけでもなく、また彼女に謝罪をさせたいわけでもなかった。
 ただ。
──もしかしてあの子、泣いてなかった?
 顔面が濡れて光っていたことを、桜の頼りない受光素子がぼんやりとした画像データとして捕らえていた。
 気になった。
 あの子が泣いている理由が、少しだけ気になったのだ。
 そしてもう一つ。
──このフロアに用はないよね、わたし。
 だから、桜は少女を追って、階段のある方向へと駆け出していた。
 銀座伊東屋は、上りはエスカレーターがあるが、下りはエレベーターか階段しかない。桜が階段前にやってきたとき、下方から階段を駆け下りる足音が鳴り響いていた。少女は間違いなく、階段を使って降りている。桜はまだ目眩から完全に回復してないせいか、おぼつかない足取りで階段を降りていく。駆け下りる、までの勢いは出せない。
 一階まで降りて、息を切らした桜はいったん歩を休め、そのまま呼吸を整えつつゆっくりと歩き出す。入ってきた正面入り口とは異なる、裏通りに面した出口をくぐると、周囲をぐるりと見回した。
 少女の姿は、ない。
 無論、正面から出ていったのであれば、ここで姿が見えないのは道理であろう。桜は正面に戻ろうか逡巡したが、視界にもうひとつ伊東屋の看板があることに気づき、考えを改める。
 そこにあったのは、赤いクリップではなく、黒い万年筆がトレードマークの、もうひとつの銀座伊東屋だ。
 伊東屋が二軒あるとは、山栗係長からは聞いていない。ただ、桜は思う──もしかしたら、表の伊東屋はお金持ちのための店で、こっちの裏道のちいさな伊東屋が、我々庶民の店なのではないか?
 だったらなぜ看板が高級筆記具の象徴である万年筆なのか判らないが、桜は本来の目的を思い出す。
──そうだ。わたし、自分のペンを買いに来たんじゃない。
 少女を探すことはすっぱり諦め、桜はもう一軒の伊東屋に足を踏み入れた。
 さきほどの表伊東屋に較べると、狭い。だが、そこには、桜でも買うことができそうな筆記具がずらりと揃えられていた。
「なんだぁ! こっちならいけるじゃん、わたし!」
 つい声に出してしまい、はっとなって口を押さえ周囲を見渡す。店員以外で視界に入った客層はほとんどが外国人で、桜の言葉に驚き振り返るものは皆無だった。店員もプロなので、ちらりと視線を投げた以外のリアクションはない。
 そんな中、真剣なまなざしで壁面の陳列棚を凝視している少女がいた。少女は背を向けているので、桜が顔を見ることはできない。
「あの……」
 細くて白い指がボーダーの長袖からちらりと覗く。そのまま掌がひらひらと振られた。どうやら、レジの辺りにいる店員を呼びたいようだ。
 桜にちらりと視線を投げた男性店員が少女に掌の動きに気づき、素早くレジを離れ歩み寄る。
「はい、何かお探しでしょうか」
「あの……以前ここにあった、ZOOM505は……」
 ZOOM505は、トンボ鉛筆が三〇年以上にわたり販売を続けている、高級水性ボールペンだ。確かに、指先が差す棚の中には、ZOOM505は並んでいない。
「通常の商品でしたらこちらに……」
「いえ、定番のじゃなく、METAのほうが……」
 店員が小首を傾げる。少女は慌てて言葉をつけ足す。
「あ、えーと、今年の新柄の、黒いモデルのほうで……」
 店員はいったんレジに戻り、年嵩の店員に何かを訊いている。黒ずくめの少女は、ポニーテールを揺らしながらそれを半目で見守っている。
 次第に額から汗が流れ出し、それが彼女の頬にも伝うようになっていた。
「お待たせ致しました。当店ではどうやら販売終了してしまったようでして……」
 そこから先は上の空だった。店員が「別の店舗の在庫を確認しましょうか」と告げているのだが、少女の耳には届いていない。
「判りました。ありがとうございます」
 そう機械的に告げ、少女は陳列棚から離れ、ふらふらと歩き始める。
「あの! すいません!」
 桜は店員の手が空いたことを察知し、大きく手を振ってからおもむろにアネロを降ろし、中からクルトガを取りだした。
「文房具詳しくないんですけど、これの代わりになるペンが欲しいんですわたし!」
「シャープペンシルがよろしいですか」
 店員は微笑みながら桜に近づいてくる。
「何でもいいんです! 店員さんのお薦めってありますか?」
「お薦め……ですか……」
 店員は顎に手をやり、視線を斜め上に投げうーむと呟いた。あまりこういうやりとりをする客はいないのだろう。唐突なリクエストに、どう切り出していいものか考えあぐねている様子がありありと見て取れるリアクションだ。
「ごめん」
 その店員と桜を押しのけるような格好で、少女が通路を抜けようとする。狭いので、どうしても身体が触れ合ってしまう。桜はその姿を見て、また大声を上げてしまった。
「あ! あなた、さっきわたしにぶつかってきた黒豹少女!」
「黒豹……?」
 少女は額から流れる汗を取り出したハンカチで拭い、桜を見上げる。
 桜の身長は一六二センチ。
 対して、少女は一五六センチ。
 視線は自然と上目遣いになる。
「さっきも泣いてたみたいに見えたけど、それって汗だったんだ! びっくりしちゃったよ、わたし!」
「……?」
 少女には「さっきも」の意味が判らない。
 ハンカチをしまい、少女は視線を手にしたクルトガに向けた。
「ずいぶん筆圧が強いな」
「あれ? わかる? そうみたいなの、高校の頃はあんまり気にしてなかったんだけど、さきっぽが折れ曲がるくらいには強いみたいね!」
 少女はごく自然な動きで右手を差し伸べた。桜はまるで吸い込まれるように、その手にクルトガを渡していた。
「普段から芯は長く出すのか? 書いてるとき、芯そのものが折れる?」
「いやあー、そんなちゃんとは憶えてないけど、がちゃがちゃ出す癖はないと思うよ! あと、確かに芯が砕けることはあった! 試験の時とか、最近よく言われる先輩からすぐメモ取れ! とか急かされるとき!」
 少女は壊れたクルトガを眺め、しげしげと眺めている。
「で、これしかペン持ってないから、その先輩からボールペンのひとつも持ってないのか莫迦! それでよく仕事できるな! ってよく叱られるのよね、わたし!」
 少女が目を上げた。口が菱形になっている。どうやら桜の外観から、彼女を高校生あたりだと踏んでいたらしい。
「え、社会人……」
 少女は「それで?」と続けそうになってつい口を押さえてしまう。
「うん! この春に就職したばっかり! 高校でもノートってシャーペンでしか取ってなかったし、色つけたりするセンスが皆無で、他のペンとかぜんっぜん興味なかったしね!」
 桜はそんな少女のリアクションの意味に気づかず、どんどん自分語りをつなげていく。
「でもね、いまの会社に就職って、わたしホント仕事できなくて駄目なんだけど、係長にノート書け、仕事のこと以外でもいろいろ書けて言われていま続けてるんだけど、書くのがだんだん楽しくなってきたのね! そこで今日、シャーペンが壊れちゃって、今日書くためのペンがなくなっちゃってね! 電車で一時間かけて帰るから、今日ここでどうしてもペンが欲しいんだけど、どれにしたらいいかぜんぜん判んなくって!」
「……同じものじゃなくてもいいのか?」
 桜は少女に訊かれ、ぶんぶんと首を縦に振ってみせた。
「ぜーんぜん違うものでもいいよ! シャーペンじゃなくてもいい! あ、でも、書き間違うことがたくさんあるから、シャーペンのほうがいいかなあ……」
「いくらまで出せる?」
 少女に言われるがままに、桜はアネロから長財布を取り出して残額を確認する。
「うんとね、とりあえず今出せるのは、一〇〇〇円まで……かなあ」
「シャープペンシルだったら、あなたの筆圧を考えたらこれ」
 少女がすっと手を伸ばす。その先には、シャープペンシルの棚がある。吊り下げられていたブリスターパックのひとつを取り、桜の前にかざした。
「ゼブラのデルガード。三ノック以内だったら、どんな筆圧をかけても絶対に折れないシャープペンシル」
「ひょえー! それはすごい! わたしみたいに筆圧高い系女子にうってつけじゃないですか!」
 桜は手渡されたパッケージをしげしげと見つめ、歓喜の声を上げる。
「あ、でも、社会人なのか」
 少女は言うが早いか、シャープペンシルの棚を離れ、別の棚からまた違う製品を持ってくる。
「ノートに書くときはシャープペンシルがメインかもだけど、それ以外にペン使うことだってあるか。だったら、赤黒二色のボールペンがいっしょになったこっちのほうが社会人向きだな」
「おおー! 二色ボールペンってやつかー! それもちょっと高級なバージョンで!」
 桜はそのパッケージも受け取り、裏面の説明を読みふける。
「え! これもデルガードなの? 折れないシャーペン、中に入ってんの?」
 目を丸くした桜は、その視線をパッケージの説明書きから少女に投げる。少女はその眼圧にやや気圧されながらも、細い指を立て講釈を垂れる。
「デルガード+2S。内蔵しているシャープユニットは超小型デルガード。通常のデルガードと同じように芯が折れない機構が、その先端の小さなユニットに詰め込まれてる。ボールペンはゼブラ独自のエマルジョンインク。エマルジョンは正確に言えば油性じゃなくて、油性インク七割に水性インク三割を配合した油中水滴型インク。こうして一本にまとまってれば、持ち歩きも都合いいし、他のペンを探す手間も省ける」
「すごい! わたしがよくものをなくすことまでお見通しとは!」
 桜は凄い勢いで、少女の背中をばんばんと叩く。少女は小さく「うう」と息を吐いた。
 眼圧強いままの目を、桜は隣で圧倒されている店員に向けた。
「これください!」
「あ、はい……ではレジまでどうぞ」
 レジ前に立ち、会計に入ろうとした桜が振り向くと、黒衣の少女はすでに店内から姿を消していた。
「え? ちょっと、なんでいないのあの子?」
「一二〇〇円に消費税で、一二九六円でございます」
「超えてんじゃん!」
 桜は支払いを済ませ、慌てて店を飛び出す。
 黒い少女はアニエスベーの角を曲がり、中央通りに向かって歩いて行く最中だった。桜は彼女に追いつくべく駆け出した。
 中央通りに出た桜は周囲を見渡す。そして横断歩道を渡った向かい側──カルティエの横を歩く少女を発見し、大声で叫んだ。
「ちょっと! 予算一〇〇〇円って言ったよね、わたし!」
 まさかの大声に、少女は立ち止まる。
「ねえ! 名前、教えてよ! わたし、秋山桜!」
「……一面識もないのに、今どきプライベートをこんな往来で教える莫迦がどこにいる」
 少女は振り返り、手だけ振ってそれに応えた。
「また! どこかで! 会おうねー!」
 その声を背後で聴きながら、少女は早足で歩き出す。
──つまらないお節介を焼いてしまった。
 深澤海はZOOM505METAを求め、銀座ロフトへと向かった。

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