たこぶろぐ

ブンボーグA(エース)他故壁氏が、文房具を中心に雑多な趣味を曖昧に語る適当なBlogです。

2019年12月新刊:「ダンベルと文房具でモテる?」


   1

「さいきん仕事がうまくいってなくてさー」
──ケンちゃんと会う時って、だいたいこの台詞から始まるんだよね。
 早川知恵はいつも通りに眉根を潜め、健からのねっとりとした視線を受け流す。
「ほら、俺って今までこれといった努力もせずに、まあまあいい人生を送ってきたわけじゃん」
 言いながら大ジョッキのビールをあおる。
「でさ、小学校と中学校はたまたま住んでた場所にいい学校があってさ、そのまま塾にも行かず普通に授業受けただけでちょっといい私立高校に受かってさ」
 どん、と置かれたジョッキには、なみなみ入っていたはずの茶色い液体が半分になっている。
「大学は最高じゃなかったけど、でも俺好きだったよあの大学」
 知恵は半眼になって健を見遣る。
 去年から交際しているこの男──飛鳥健とは、大学のサークルで知り合った。
 珈琲焙煎研究会は大学非公認だったが、学生ホールでの勧誘会で香ばしい香りに誘われ、説明を受けまいかどうするか迷っている時──そこに大股ですたすたと近づき、「どう? ちょっと寄ってく?」と声を掛けてくれたのが、四年生の健だったのだ。
 その後の新入生歓迎会で隣同士になり、なぜか知恵が飼っているパグの話題で盛り上がり、そこから交際が始まったことを、まるで昨日のことのように思い出す。
 天然パーマを隠さないちりちりの短髪。毎日は剃らないのか、うっすらと髭の跡が残る細い顎。太い眉毛はそれなりに整えてあり、切れ上がった目つきは爽やかな印象を振りまいていた。
 だが、知恵の脳裏にある健と、いま眼前に座り鯨飲馬食を繰り広げる健とは、レイヤーで重ねても相貌が一致しない。
「うめえなこの唐揚げ。知恵も食べろよ」
 言うが早いか、タブレット端末を取り上げて健はビールを追加注文する。テーブルの上には、唐揚げ、フライドポテト、牡蠣フライ、焼き鳥、サイコロステーキが所狭しと並ぶ。
「しかしさ、この俺の潜在能力の高さを持ってしても、やっぱり仕事ってやつは難しいな。もう毎日失敗の連続さ。それもここで話して笑って済まされるやつじゃなくて、もっとちっちゃくてせせこましくて、でも毎日きっちりやらないとお客さんに怒られちゃうやつ。まあ、お客さんより前にたいてい課長に怒られるんだけどな!」
 へらへら笑いながら、フライドポテトを五本ほど一気に頬張る。たわんだ頬がもちゃもちゃと蠢動し、顎肉がたるんたるんと揺れた。
「こないだもさ、お客さんとこで書類もらってさ、帰ってきたら足りないんだよ。で、もっかい取りに行こうと思ったら課長から『往復二時間かけて書類一枚じゃ効率が悪すぎる。相手に説明してPDFをメールしてもらえ』だとさ。営業マンは対面が生命、状況説明と笑顔で納得頂いてこその営業マン! ここで失敗を挽回しつつ先方に気に入ってもらう作戦、悪くないと思うんだけどなー」
 言いつつ、追加で来たビールをごぼごぼと胃に流し込む。
「でさ、こういっちゃなんだけどさ、万能天才であるところの俺もさ、電話ってやつだけは大の苦手でさ。掛かってくるヤツはもう機械的に出て対応できるんだけど、掛けるのがホント苦手でさあ。電話って相手の表情が判んねえだろ? 何となくビビっちまって他の仕事してたらあっという間に一時間。それでまた課長につつかれてさ」
「……やる気あんの?」
 知恵が言う。
「そうそう、課長の言い方そっくりだ! 判ってるねえ知恵ちゃん」
 この話題は初めてだったが、それ以外の健と課長とのやり取りはうんざりするほど聞かされている。知恵には、面識こそないが課長の口調も表情もはっきりと想像できた。
「で、結局平謝りして書類をメールで送ってもらってさ。もうヒヤヒヤもんだよ」
 ヒヤヒヤするのはあたしもおんなじだよ──知恵はそう言おうとしたが、口を開こうとしたその上に、さらに健がかぶせてくる。
「でさ、その取引先ってのがさ、入谷にあるんだけど、電車じゃ行けなくてバスを乗り継ぐんだ。うちは貧乏メーカーだから、営業車ってやつがなくてさ、電車かバスかタクシーで営業回りすんのね。俺は新人だからタクシーは禁止で、電車とバスで回るんだけど、まあそのバスがないない。一時間に二本くらいでさ、しかもその取引先の周りは食い物屋がないから昼前に行ってバスで駅に戻るか、駅で昼食ってからバスで向かうかの二択しかないんだ」
 しらねーよ、と唇を動かそうとしたが──知恵は思いとどまり、ずっと避けていた健の視線に目を向ける。
「あのさ」
「何?」
「今、体重何キロある?」
「……最近は測ってねーけど……正月に実家で測ったときは……六九キロ……」
「身長は?」
「……一七〇センチ……」
「大学卒業するまでの体重は?」
「……たしか……五九キロ……」
 知恵はいったん言葉を切り、ストローで烏龍茶を吸い上げる。
 健はその知恵の行為を瞬き一つせず凝視する──するしかなかった。
 ぐびり、と喉が鳴る。飲んでいる知恵のではなく、健の喉から出た音だった。
 知恵はストローから唇を離し、ひと息ついてから、こう告げた。
「別れよっか」

   2

 あれ以来、知恵との連絡はいっさい取れなくなった。
 健はLINEを開き、毎日のように「元気か?」と入力し送信する。
 知恵の既読はつかない。
 あの晩、どうやって帰宅したのかも定かではない。気づけば健は自分のアパートにいた。
 財布から現金は減っていなかった。知恵が払ったのかもしれない。後で確認したが、クレジットカードの支払い明細にも載っていなかったし、モバイルSuicaやペイペイの履歴にも支払いの事実はなかった。
 知恵が自分に愛想を尽かした、という事実が健に重くのしかかる。
 翌日の午後から、経験したことのない偏頭痛に見舞われた。
 夕方には、かつてないほどの肩こりで腕が上がらなくなった。
 それ以来、注意力は散漫になり、仕事でのミスが激増した。
 課長は健を個人的に呼び出し、面談を行ったが、健自身も不調の理由を説明できない。
 原因は判っている。だが、理由は判らないのだ。
 一度の挫折も経験せず、健は社会人になっていた。
 小学校や中学校ではそれなりに成績優秀で、体育もそつなくこなした。得意なスポーツはなかったが、かといって苦手な種目もなかった。
 高校は通える範囲で一番の私立高校に合格した。彼の両親は、大学は東京の私学に行かせる腹づもりだったため、受験勉強に特化したクラスで彼はそこでもそつなく過ごした。
 大学は第二志望の私立B大学だったが、両親にも彼自身にも不満はなかった。両親がアパートの代金を、光熱費と生活費は自らアルバイトで捻出することを条件に、健ははじめての独り暮らしを東京で始めた。
 大学では法律を学んだ。ゼミではジャーナリズムと法律について研究をしていたが、法律そのものに興味は持てずにいた。喋るのが好きだったので、営業職が向いているのではないかと勝手に解釈し、彼自身は業種を特定せず、なんとなく広範囲に就職活動を行っていた。
 運良く小さな玩具メーカーに就職した彼は、そこで三ヶ月の研修を受けた後、営業マンとして都内の問屋を回る部署に配属となる。
 ここまでは、まったく努力もなく、ただ流れと勢いだけの人生だった。楽な生き方をしてきて、泥水をすすることもなく、ただまっすぐの道を自分のペースで歩んできた。それで何の問題もなかった。
 だが、ここから先は挫折の連続だった。
 彼は現場に出て経験さえすれば総ての知識はつくものだ、与えられるものだと過信していた。
 彼の職場は課長が一名、係長が二名、その下に部下が二名ずついるだけの少数部隊だった。彼を直接教える立場にある係長と先輩社員は、地方に顧客がいる関係から出張が多く、月初と中間打ち合わせ、月末の月に三日しか本社にいない。もうひとつの係は仕事が違うため、健に何かを教えてあげられるわけではなかった。
 健は課長直属に近い形で仕事を始めたが、課長は社内業務と大手取引先との商談に忙殺され、健と社内で話し合う時間すら持てない状態だった。徒手空拳で挑む健は取引先で揉まれ、不手際を起こし、その不手際も健は課長に直接報告できない。日報をパソコンに入力して帰途に就く二一時すぎでも、課長は席に戻らない日が続いた。
 結果として、毎朝──日報を見たり事務員からの電話メモを見たりした課長が、健を叱り飛ばす光景が繰り広げられることになる。
 健のやる気は日々削がれていった。相談できる人が側におらず、今まで通り経験則で体当たりするとかなりの確率で失敗する。報告も億劫になってしまい、日報が溜まって対応が後手後手になる。取引先からの苦情も増え、課長も健の行動を問題視せざるを得なくなっていく──。
 そんな悪循環が、昨年七月から今年の三月末まで繰り返されていた。
 健は大学時代、簡単な自炊で夕食を賄っていた。だがそういった心の余裕も次第になくなり、配属後はアパートの近所にある居酒屋で呑んで食べ、帰宅後は酔ったまま寝るような生活パターンに陥っていく。
 あんなに好きだった珈琲も、毎朝豆を挽くのが億劫になり、粉で買うこともなくなり、インスタントすら面倒で飲まなくなってしまっていた。
 すたすたと大股ではや歩きするのが特徴だった健だが、この頃には階段の上り下りで息を切らすようになっていた。
 総てが悪循環だった。
 そして、そこに追い打ちを掛けるような、知恵の態度。
 目の前が真っ暗になったような気がして、健は課長の許可を得、有給休暇をもらい近所の内科に相談に来ていた。
「血液検査の結果で言えば、異常値はありませんね。数値が上限ぎりぎりのものは散見されますが、すぐに改善しなければならないというわけでもない」
 老医師は暗く落ち込んだ表情の健に、こともなげに告げる。
「体力が落ちているようですし、適切な休息と──あと、体重は落とした方がよさそうですな」
 簡単に言うなあ、と思いつつ健は内科を後にする。
 iPhoneを見ると、課長からのLINEが入っていた。
「明日は出社できるか? 説明したいことがある」
 健はめんどくさそうに「行きます」とだけ返信した。

   3

「販売促進課より転属になりました、東条未来と申します」
 長身の女性はひらりと頭を下げた。健はその姿を、自席で立ったまま見つめる。先輩たちがぱらぱらと拍手をし出したので、健も合わせてけだるげに手を叩いた。
「四月期の配置転換は珍しいのだが、わしのたっての依頼で彼女はここに来てくれた。飛鳥を除けばみな知っての通り、東条はわが営業課の生え抜きの営業ウーマンだった。去年、販売促進課に引っこ抜かれたときは人事に猛抗議したくらいだ。代わりに新人の飛鳥が入ったわけだが、都内全域をわたしと飛鳥だけで網羅するのは無理がある。そこで再び、彼女には古巣に戻ってもらうことにした」
「飛鳥さんとは初対面になりますが、他の皆様とまた同じ仕事ができることを嬉しく思っています。改めまして、宜しくお願いします」
 未来はそう言って、再度ひらりと頭を下げた。
 健はそんな彼女について、その後課長と未来自身から、じっくりと話を訊くことになる。
「入社八年目になります」
 未来は落ち着いた口調で、対面に座る健に話しかける。会議室に空きがなかったので、特別に借りた役員接待のための応接室は、ソファがふかふかすぎて、健には居心地の悪い場所だった。
「彼女はわしが課長になりたての時、この営業課に配属になった」
 未来は最初、この営業課の営業事務担当だった。
 しかし彼女の能力は内勤にはもったいないと課長が判断し、二年目より営業担当に抜擢される。それ以降、未来は数年にわたり課長とタッグを組んで外回りを始めることになったのだ。
「で、去年、お前が新人でうちに入ることが人事で決定され、自動的に東条は人手が足りない店頭支援の部隊に回されたんだ」
「ということは──」
「入社八年目ですけど、想像より若いんですよ」
 落ち着いた口調で未来は言う。だが、健はにわかには信じることができない。
 眼前にいる、グレーのスーツに身を包み、黒髪ストレートの髪から大きめの耳が覗くこの女性が、わずか二歳年上なだけだとは到底思えないのだ。
 大きめの眼鏡の中では、糸のように細い目が微笑んでいる。唇に惹かれたルージュは紅く、顎は尖り気味だ。その口から、顎から出てくる言葉のひとつひとつが、実に落ち着いていて奥深い響きを伴っている。
「彼女のこの落ち着いた態度は、入社以来まったく変わっておらん。取引先でも好評だった。だから、お前の評判が悪いのはお前のせいだけではないとわしは思う。東条と較べれば、わしもたぶん評判の悪い営業マンになってしまうだろうからな。だが、厳しいことを言うようだが、お前も現場で九ヶ月やってきた。もうただのド素人ではない。OJTが行き届かなかったことはわしに責任があるが、これからはお前に本当の意味での教育をすることができる」
 未来を観察していた健は、課長の言葉に慌てて返す。
「え、今なんて……」
「我流が通用しないことは判っただろう。教育できなかったわしも反省している。今日からは、東条がお前の教育係だ」
「え」
 視線を課長から未来に戻す。
 未来はにっこりと微笑んでいる。
「今日から三ヶ月間、お前と東条は二人三脚だ。七月に二年目になった時、お前を独り立ちさせる。この三ヶ月でビギナーを卒業しろ」
「え」
 また未来から課長に目を移す。
「タイムリミットは三ヶ月。判らないことは自分で判断せず、総て東条と相談しろ。東条はいっしょに営業に出るが、現場ではいっさい口出しせんし訊かれたことしか答えん。どんどん訊いて、身体に叩き込め!」
 今度は声も出ない。健の視線だけが、未来と、課長の間をぐるぐると回っていた。

   4

「宜しくお願いします」
 席に戻り、健は未来にまず頭を垂れた。今までの人生、意味もなく自信満々で、状況に合わせひとりで何でもやってきた彼にとって、初めてのマンツーマンの教育係──言い方は悪いが、健には未来は課長から派遣された監視役に思えてしまう。
「課長はああ仰ってましたけど」
 未来は打ち合わせ机から椅子をひとつ移動させ、健の席の隣に座った。
「気楽に行きましょう。訊かれたらもちろん答えますけど、それ以外にもちゃんとフォローもアドバイスもします」
 眼鏡の奥の糸目が、さらに細くなる。
「はい、判りました……えーと、まずは何をすればいいですかね……」
 おっかなびっくり訪ねる健に、未来は穏やかな口調で告げる。
「今日明日は事務整理と、今後の営業のやり方について考えましょう」
「はい」
 健は塾や家庭教師を経験したことがない。個人授業を受けるということは、こういうプレッシャーを感じ続けることなのか──と独り勝手に肝を冷やしていた。
「幸いなことに、課長にお伺いしたところ、今週は重要な仕事はないそうなので。実際の外回りは来週から再開することにして、まず現状を把握させてください」
 未来はそう言うと、営業に関する資料を健に用意させた。ほとんどの情報はサーバーに蓄積されているので、彼の仕事上のデータは机上にあるパソコン、あるいは外回りで閲覧するためのiPadで確認することができる。
 未来は健のつたない説明に従い、それらの情報を閲覧していたが、ふと視線を外すと彼の手許や胸元を確認し出した。
「何でしょうか?」
 チェックされてる──健はそう感じ、冷や汗を掻きつつつい大声を出してしまう。
「あ、いえ、ごめんなさい。訊いたこと、訊かれたことをいっさいメモに取らないので、記憶力がいいのかしらと」
 健ははっとする。確かに受け答えの際に間違ったことは言っていない自信があるし、未来に言われた今この場でのアドバイスは反芻できる。ただ──明日になったら、この記憶はどうなるのか? 思い出し、受け止め、活かすことができるのか?
「すみません、ぼーっとしていました。記憶力は良い方だとは思いますが、確かにメモは必要です」
 慌てて返答から、またはっとする。配属になった初日、課長にも「憶えるのもいいが、忘れないように、反芻のためにもメモを残せ」と言われていたのを、今さらながらに思い出したのだ。
「わたしも課長に、入社して最初に言われました。何でもいいから書け、と。だからメモとペンは欠かさないようにしています」
 未来はジャケットのポケットから、小さなリングメモを取り出した。
「これ便利なんですよ。〈パッとメモ〉って言って、空白のページが必ず開くようになっているんです」
 と言われても、理解できない。健は返事を忘れ、手許のメモを覗き込んだ。
「判りますか。リングメモって、天面にリングがあって、穴の空いたメモ用紙が綴じてありますよね。このメモ用紙が、左側の側面だけ糊でくっついてるんですね」
 未来はメモを持ち上げ、手首を返す。塩ビでできた表紙と数枚のメモがリングを軸に背面に回り込み、〈パッとメモ〉は彼女に白い未記入のメモ欄を見せた。
「使ったページは、側面の糊からはがしておくんですね。そうすると、急いで書きたいとき、白紙のページをこうして一発で準備することができるんです」
 細くすらりと整った未来の小鼻が、わずかに膨らんだ。
「ペンはこれです」
 続けて、彼女は胸元からローズピンクに輝く細身のボールペンを取り出した。
「〈アクロ1000〉です。細く、濃く、なめらかに書けて、女性のスーツみたいな狭いポケットにもすっと収まります。お洒落でありながら実用的で、この握る部分のほんの少しの膨らみが好きなんです」
 そう言いながら、未来は健にボールペンを手渡す。彼はおずおずと受け取り、グリップ部分をまじまじと見てからそっと握ってみた。金属軸だが塗装のせいか冷たさは感じない。重心が適度に先端に集まっているのを、指先に感じた。未来が言っていた膨らみの部分だ。
「いま油性ボールペンは、この低粘度油性という、なめらかに書けるインクが主流になっています。細い線がすらすらと、しかも黒々と書けるんです。書き出しがかすれる心配もありませんし、一〇〇〇円という価格のわりに高級感もあります。一〇〇円の透明軸も大好きなのですが、取引先で取り出すペンとしては胸ポケットから見えていても違和感のない、このペンを愛用しているんです」
 失敗コピーの裏紙に、〈アクロ1000〉で書いてみる。途切れることのない黒々とした細い線が苦もなく書ける。
「飛鳥さんは、仕事とか物とかにこだわることはありますか」
 健はその質問を耳にし、ぐるぐると書き散らしていたボールペンの線を止めた。
「こだわること……」
 言葉は知っている。辞書を引けば第一義には否定的な──気にしなくてもいいようなことを気にしすぎる、という意味が出てくる言葉だ。ただ健の認識では、決して否定的な言葉ではなく、むしろ「趣味人の粋」のごとく、比較的いい意味で使用される例が多いような気がする。
 こだわりはありますか──そう言われて答える言葉がない自分に気づき、健は動揺した。
 仕事にこだわりはない。否、こだわりどころか、関心すらない。体験を増やしてもっと営業を上手くなろうとも思わないし、別の勉強をして自分を拡げたいとも思わない。メモも取らないし、机の引き出しに転がっているボールペンはさっき未来が明確に持ち歩きを否定した、透明軸の名もなき支給品だ。唯一こだわりと言えば珈琲だったが、それも豆を挽かなくなってずいぶん経ってしまっている。
 いきなり深いところをえぐられた気がした。仕事とは──自分にとって仕事とは何か?
 健は答えられない。ペン先はぐるぐるをやめ、あるひとつの言葉を書いたっきり止まっている。
「……飛鳥さん?」
 未来は裏紙に仕事と書いたまま固まってしまった健に、やや戸惑ったような声音で尋ねる。
「正解はありませんよ」
 言うが早いか、健の手から〈アクロ1000〉をそっと取り上げ、自らの胸ポケットに滑り込ませる。健はペンを奪われたことすら気づかない。
「仕事だけじゃないです。何事にも、正解はありません。やってみて、上手くいかなかったら別の方法でもう一回やってみる。ただそれだけです。その別の方法を指南するのが、わたしの役目です。いきなり成功することはめったにないですし、失敗しても生命を取られることはありません」
 眼鏡の奥の糸目が笑みかける。
 健は答えられない。
 ただ、ようやく、頷くことだけはできた。
「……宜しくお願い致します」
「じゃ、午後はさっそく」
 未来は椅子に掛けてあったバッグを持つと、やおら立ち上がった。健はその姿を目で追う。先ほどの質問でショックを受けたその身体は、まだ思うように動かすことができないでいた。
「わたしはこれから課長と昼食ミーティングがあります。帰ってきたらいっしょに出かけましょう。課長、午後の外出よろしいですか。飛鳥さんの仕事道具を買いそろえてきます」
 健は頷くしかできなかった。
 その日の昼食は社員食堂でひとり、カレーライスの大盛りを食べた。だが、味は判らなかった。

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