たこぶろぐ

ブンボーグA(エース)他故壁氏が、文房具を中心に雑多な趣味を曖昧に語る適当なBlogです。

2018年12月新刊:「トモエ堂文具店のタマシィガァル」



    1


「悪いねー、ラピッドグラフのカートリッジは扱いがなくてさー」
 そうはっきり言われてしまっては、画翠も二の句が継げない。
「取り寄せは……」
「できるけどさー」
 店主は、さも面倒くさそうな表情で画翠を見やる。ただ、その口許には笑みが浮かんでいた。そう、店主も判っているのだ。こっちが本当に欲しがっているってことを──だから彼も、つい笑顔を返してしまう。
「とりあえず消しゴムはこっちでいいらー」
 店主はKeepをひとつ摘まみ、画翠に向けて見せた。そう、画翠はシードのRaderよりもホシヤのKeep派なのだ。
「あ、お願いします」
 このミカワヤ文具店に通うようになって、二ヶ月が経過していた。店主にも、週に一度は必ず現れるこの天然パーマの大学生の好みが判ってきたようである。
「それと、ケント紙を。そう、ミューズのケントブロックで。B5でお願いします」
 画翠はポケットからしわだらけの一〇〇〇円札を取り出して、レジカウンターに置いた。店主は鼻で笑うが、やはり口許には笑みがこぼれている。
「ありがとうねー」
 釣り銭を返し、商品を紙袋に入れながら、店主はさも今思いついたかのような口ぶりで呟いた。
「ああ、あそこならあるらー」
「あそこ?」
 商品を受け取り、画翠はつい鸚鵡返しに訊いてしまう。
「あそこって?」
「ああ、トモエさんのとこらー。うちより古い、明治の最初ンころから店をやってるところでさー。最初は筆とか半紙とかが主だったらしいんだけど、徐々に製図用品とか画材とか置くようになってさー。うちより狭いのに、うちより専門的な品揃えになってるからさー」
 画翠は釣り銭を上着のポケットに突っ込み、ジーンズの尻ポケットから5×3カードを取り出していた。
「住所、教えてもらえます?」
「ああ、行きゃー判るらー。楽寿園の先、静銀の手前あたりだからさー」
 画翠は胸ポケットから出したプレスマンで、「らくじゅえんの先」と5×3カードに大書した。
 楽寿園の漢字は思い浮かばなかった。彼はまだ、この土地の地名を総て知っているわけではない。

 武田画翠がこの街に住むようになったのは、今年の三月末からだった。
 ここにある大学に合格し、四月から新入生として通っている。
 最寄りの駅から大学まで、徒歩で一〇分ほど。彼が下宿する学生寮はその先さらに五分ほど行った場所にある。
 近いことはいいことだと最初は思っていたが、学生寮と大学の往復だけで過ごした一週間で、画翠はすでに不便を感じ始めていた。
 欲しいものが手に入らないのだ。
 学生寮と大学の間でまともな小売店と呼べるものは、スーパーマーケットのヤオハンだけだった。
 本屋も、文房具店も、コンビニエンスストアも、ない。
 彼が特に欲していたのは、文房だった。
 大学の購買コーナーにあるのは、授業を受けるのに必要最低限のものだけだ。鉛筆、消しゴム、シャープペンシル、シャープ芯、ボールペン、ノート。それも、種類も少なく、一〇〇円定価の安価なものばかりである。
 高校時代は漫画を描き、地元の有志と同人誌を編むようになっていた画翠は、次第と文房具を選ぶようになり、その興味も拡大していた。一般的な筆記具だけでなく、製図用品や画材にも守備範囲は及ぶようになり、手に合うだろうと思われるものは積極的に試す毎日だったのである。
 実家の近くには、行きつけの文房具店が何軒かあった。自転車で回ることができたので、多少の距離も厭わなかった。だが、学生寮には自転車を持ってきていない。また、この街の情報も決定的に足りない。
 画翠は学校と寮の往復をやめ、大学の帰りは可能な限り町を歩き回ることにした。
 欲しい情報は三つある。
 まずは文房具店。
 次に本屋。
 そして、レンタルビデオショップ。
 この三つを発見すべく、画翠は桜が散り青葉が茂る町並みを歩き始めた。

 画翠は自分の名前を嫌っていた。
 名前負けしているといつも思っていた。
 一浪しているので、今年で二〇歳。身長一六八センチ、体重五九キロ。まさに中肉中背であり、茶色がかった天然パーマに丸眼鏡は特徴的ではあるものの、「画翠」というインパクトある名にふさわしい何かを備えているわけではない。
 その名は父母ではなく、親戚のようにつき合っている向かいのおじいちゃんがつけてくれたのだ、と父がいつも自慢げに言っていたのを思い出す。
 まるで画家になれ、と言わんばかりの名前だが、向かいのおじいちゃんが言うには、画翠とは「緑色で描かれた絵のような、爽やかで力溢れる草原のイメージ」なのだとか。
 画翠は自分の名前を嫌っていた。
 ただ、同人誌で漫画や小説を発表するとき、この名前が実にペンネームっぽくて評判がいいということに気づく。
 生まれて初めてのオフセット印刷された同人誌は、一〇〇部のうち二〇冊しか世に出て行かなかった。ただ、手売りした相手のほとんどが、自分の名前を話題にした。
「いいペンネームですね」と──。
 なので画翠は、自分の名前を「生粋のペンネームである」と解釈することにした。
 それ以来、気が楽になった画翠は、この歳になってようやく自分の名前が好きになりつつあった。

 画翠は暇に飽かせて、町をぐるぐると歩いて回る。
 本屋は小規模なところを何件か発見したが、毎日入り浸るような魅力的な店は発見できなかった。
 レンタルショップは駅近くにちいさな店を発見したが、本来ならレンタル禁止のはずのレーザーディスクをレンタルしているので、危険な店なのではないかと思い二度と敷居をまたいでいない。
 学生寮をさらに北上すると、普段訪れない方向にローソンができたことを知った。
 大学の前を素通りし、駅に向かう途中で発見したのが、現在では行きつけとなっているミカワヤ文具店である。
 駅から大学に向かうときには、画翠は普段、駅に近い歩道を歩いている。ミカワヤ文具店は車道を挟んだ反対側にあったので、その存在に気づかなかったのだ。
 だが、店舗は決してちいさくはない。顔を上げて歩けば視野に入るはずの場所だった。なぜこの位置にあるこの規模の文房具店が発見できなかったのか──画翠は自分を責めると同時に、小躍りしてさっそく店内に入ったものである。
 地方にある文房具店としては標準的な品揃えで、近所にある学校や簡易裁判所への納品もこなす、その街でも要となる存在だった。店主はやや皮肉っぽい行動を取ることもあるが、根は優しいひとだった。
 ただ、画翠の趣味はややマニアックな方向に傾倒していたので、ミカワヤ文具店だけでは彼の注文に応えきれないこともある。画翠とて、遊びで店に来ているわけではない。別の店を開拓する必要があると思い始めたのが、最近──梅雨に入って天気がぐずつくようになったこの六月である。

 そして今日、また新たな出会いがあるのだ。
 わくわくが止まらない。
 傘を綴じ、アーケード街に入ってすぐ、画翠は目的地に着いたことに気づく。
「トモエ……堂……」
 ミカワヤ文具店からかなり歩いた気がしていた。
 アーケードがあるので、明かりが射さず看板が目立たない。
 かなり古い看板である。木なのか、銅板なのか、素材すらはっきりしない。
 巴の紋が彫り込まれている。その紋の下に、トモエ堂文具店、の文字。
 引き戸は開け放たれている。木造の建物で、幅は狭いが、奥行きはあるようだ。外から見ると、棚が入り組んでいて店の奥がどのような構造なのか判然しないのだ。そして薄暗く、静寂が支配している。
 画翠はもう一度、引き戸の上にある、壁に取りつけられた看板を見る。
 巴の紋は──画翠の知る、どの「巴」でもなかった。
 四つ巴、だ。
 四つの玉が尾を引き、互いを追うかのように丸く配置されている。
 画翠はしばらく看板に見入っていたが、思い直したかのように身体を捻り、店内に足を踏み入れた。
 土間だった。
 よくある、タイルやリノリウムの床ではなかった。三和土で仕上げられた土間である。
 周囲の什器も、背が高い。文房具店と言うよりは、古書店に近い印象を受ける。
 棚には整然と文房具が並べられていた。低い位置には引き出しや棚があり、手の届く位置は筆記具を中心とした、立てて置くための筒状の什器が据え置かれている。それより高い位置には扉で閉ざされた棚がある。何が入っているのかは、一目では判らない。
 入り口近くにあった傘立てに傘を置いた瞬間──
「──いらっしゃいませ」
 店の奥から声がした。
 若い。
 いや、幼いと言っていいだろう。少女の声、だった。


    2


 店内に人影はない。
 自らの呼吸音が空間を支配しているのではないかと錯覚するほどに、静かである。
 声の大きさから言っても、予想より遙かに近いところにその少女はいる──はずだった。
 いるはずなのだが、気配すら感じ取ることができない。
 画翠は声の方向を確かめるべく、木製の棚を迂回してさらに店の奥に歩を進めた。
 二本の棚をやり過ごすと、その一番奥に、まるで時代劇に出てくる呉服問屋のような光景が拡がる。
 畳の座敷があり、木の枠で囲まれた帳場がある。左脇は土間がそのまま通路となり、のれんがかかった壁の先に吸い込まれ消えていく。帳場の背後には青海波が無数に描かれた古めかしい襖がある。この先にも何か部屋があるのだろう。
 そして、その帳場の中に、声の主は、いた。
「いらっしゃいませ」
 もう一度、声がした。さっきよりもはっきりとした、そして若干の事務的な冷たさを含んだ物言いだった。
「どうぞご覧下さい。判らないことがありましたら、お尋ね下さい」
 画翠は少女を見る。
 少女は表情ひとつ変えない。視線も手元を見つめたままで、画翠に向けられることはなかった。
 もっとも、画翠は少女の視線を追うことができたわけではない。
 少女の前髪は長い。完全に両の目を覆っている。外から見て、少女の視線を追うことは不可能だった。
 前髪が不自然なほど長いわりには、髪全体はショートカットと呼べる長さである。帳場に正座しているので正確な身長は判らないが、全体的に小柄で華奢な印象を与えている。ノースリーブのスウェットパーカーから露出している腕は細く、未成熟な印象を与える。──中学生くらいか?
 かさり、と音がした。少女の手元にあったものが紙であり、少女は鉛筆で紙に何かを書いていたことを画翠は知る。
──原稿用紙? 満寿屋か? それとも相馬屋?
 画翠は自然と、店内のどこかにある原稿用紙の場所が気になって、店内にひしめく文房具に目を移す。少女から視線を外し、店頭方向に目を向けた瞬間から、少女の気配は消え、画翠には文房具のことだけが情報として入ってくる。
 そうだ。ここなら、欲しかった文房具が手に入るかもしれない──画翠の脳裏に浮かんだものは、ミカワヤ文具店で購入できなかったロットリング・ラピッドグラフのインクカートリッジと、あのときは思い出せなかったホッチキスの針のことだった。
 画翠は少女の存在を忘れ、また棚の間を徘徊し始めた。どこに何があるか判らない店内は、彼にとって秘境を探検するに等しい喜びを与えてくれる場所だった。
 ロットリングの棚はすぐに見つかった。什器に整然と並べられた製図ペンたちに、画翠は心奪われる。製図そのものを行うわけではないが、ロットリングの正確無比な細い筆跡は、彼の心を捉えて止まない。同じ棚に並ぶ雲形定規や製図用コンパス、ディバイダーの類いもまた、彼には眩しい存在だった。
「いいコンパスだな……これはコクヨ、こっちはステッドラー。それにシンワ測定やドラパスまで……すぐ必要なことはないけど、これは欲しい」
 物欲が湧き出てくる。が、画翠はすぐに思い直し、ホッチキスの針を探し始める。コピーで同人誌を作成する際に使用する、錆びないステンレス針が欲しかったことを思い出したのだ。
「こんにちはー」
 店頭で声がした。新しい来客があったようだ。
「いらっしゃいませ」
「あ、セイカちゃんいたんだ。店番いつも偉いわねえ」
 棚の向こう側では、顔見知りと思われる女性客と、店員である少女の会話が行われている。画翠は聞くともなしに、この会話を耳にしながら目当てのものを探していく。
「いえ。もう慣れましたから」
「そうかいそうかい。ああそうだ、息子の帳面が欲しくてね。連絡帳ってやつで、ちいさい方。あと、安いのでいいので、お習字用の筆と、それから絵の具の白と、短い定規も。学校でなくしちまったって言うからさ」
 軽く目を上げると、帳場に座る少女の姿が棚の隙間から見える。
「棚に番号があるの、判りますか?」
「ああ、知ってるよ。上に出っ張ってる木の板に書いてあるアレだよね」
 言われて画翠も視線を上げる。なるほど、天井に貼りつく高さの棚から、教室番号を掲示するような木の板が張り出している。自分の目の前の棚は六番だ。
「学習帳は二番、習字の筆は三番、絵の具は五番、定規は六番です」
 視線を少女に戻したとき──画翠は信じられない光景を目の当たりにする。
 少女の背後が輝き、そこから四つの魂──画翠にはそう形容するしかなかった──が迸り出て、四つの棚に向けて宙を舞ったのだ。
 そのうちの一つが、しゃがみ込んで下の棚を覗いていた画翠の頭上に飛んでくる、そして手もない魂が定規を棚から少しだけ通路側にはみ出させ、また少女の元に返っていく。
 目が合った。
 魂は、にやりと笑った。
 ような、気がした。
「二番、三番、五番、あと六番ね。ありがと」
 客は順に棚を周り、欲しかった商品を手にしていく。立ち上がることができず呆然としている画翠に「ごめんあそばせ」と声を掛け、頭上に手を伸ばして魂が用意してくれた定規を取り上げた。
 無言でそれを見つめる画翠。そんな彼を尻目に、女性客は商品を帳場まで持っていく。
 少女がはじめて、笑顔を見せた。
「ありがとうございます」
──さっきのは何だったんだ。
 画翠は自問する。
──幻か。錯覚か。
 画翠は自答する。
──あの女性には、あれは見えていなかったようだ。だとしたら、幻覚だ。
 現実的に言って、文房具店で魂の乱舞はあり得ない話である。
 帳場にいる少女は、何事もなかったかのように会計を済ませ、ゆっくりとした動作で商品を袋に詰めている。
 自分だけが惚けて座り込んでいる。
 おかしいのは、自分だ──画翠は思い直し、ゆっくりと立ち上がった。
 女性が去った後、手にしたロットリングのカートリッジを購入すべく、帳場に向かって歩み始める。
「あの……」
「はい。ありがとうございます」
 少女の口許に笑みが生まれる。近づいても、やはり前髪に隠された目はまったく見えない。
「さっきのは……」
 口に出して、しまった、と思う。訊いてどうするのか。幻視を説明できるのか、と。
「あ、渦巻のおばさんですか?」
 少女は渡されたカートリッジをぎこちなく袋に入れながら、画翠の思いとは異なる返答を発した。
「凄いですよね。いつもああやって矢継ぎ早に欲しいものを言って、嵐みたいに店内を巡って、買ったらすぐ帰っていくんです。本当は菅公さんって言うんですけど、すごい勢いでお店の中をぐるぐる回ってすぐいなくなるから、あたしあの人のことを渦巻のおばさんって呼んでるんです」
 画翠は開いた口がふさがらない。ただ呆然と、包装が終わるのを待つしかなかった。
──ぐるぐる回っているのは、あのおばさんではなく、君の上を飛び回っている白い魂のようなものなんだけど……
 また、つい口から出そうになって、画翠は強引に口を閉ざす。普段使わない筋肉を駆使して、強引に唇に力を込めた。
「悪趣味ですかね?」
 少女の口許がWの形になっている。画翠は、自分の口許はΛになっているのではないかと想像した。
「……見えたんですね?」
 くしゃくしゃになった一〇〇〇円札を渡そうとした画翠に、少女は優しく語りかけた。
「見えた人、家族以外では初めてです」
 おつりをそっと画翠の手に載せ、両の手で覆い被せるように包み込む。右手が包帯で覆われているのが見える。握られた感じから、力を入れることができない様子であった。
「あまり他の人に言わないほうがいいと思いますよ。信じてもらえないと思いますし」
 握られた手が、そっと離される。画翠は視線を、自らの手から少女に移す。
 少女の背後に、後光のように四つの魂が放射されているのが見えた。
「またのお越しを、お待ちしています」
 店を出ても、まだ幻が見えているようだった。少女の言葉が脳内に反響している。まだ手が震えている。そして、手を見るたび、少女の包帯の感触が蘇ってくる。
 どういうことなんだ──ぼんやりとしたまま、気づけば寮に辿り着いていた。
 画翠がステンレスのホッチキス針を買い忘れていることに気づいたのは、翌朝のことであった。

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