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2024年3月12日、我が手元に新しいMacが届きました。
MacBookAir M3 15inch(以下MBA M3)モデルです。
8コアCPU、10コアGPU、24GBユニファイドメモリ、2TB SSD。BTOで最強モデルを組みました。
今回はiMac購入を諦め、メインマシンとしてMBA M3を使用することにしましたので、こういったごっつい仕様を選んだのです。
前回の、というか2024年3月11日までのメインマシンは、iMac Late2015モデルでした。
手元に来たのは、2016年1月31日。8年前ですね。
3.1GHzクアッドコアIntel Core i5、16GB 1,867MHz LPDDR3オンボードメモリ、2TB Fusion Drive。モニタはIPSテクノロジー搭載21.5インチ(対角)Retina 4Kディスプレイ。
今回のMBA M3で唯一負けているのは、モニタだけです。
なので、iMac Late2015は下取りに出さず、セカンドモニタとして活躍してもらおうと思っていました。
到着してまずひとこと。
でかい。
いま手元でiMacと併用しているMacBookAirは、11インチEarly2015モデル。高さ:0.3~1.7cm、幅:30cm、奥行き:19.2cm、重量:1.08kg。
対して、MacBookAir M3は、15インチ。高さ:1.15cm、幅:34.04cm、奥行き:23.76cm、重量:1.51kg。
ずいぶんでかい。
液晶も、15インチってこんなにでかかったっけ? みたいな印象です。はじめて買ったCRTが17インチだったのですが、ぜったいそれより大きいな。
購入したらまずMBA M3本体を電源につなぎ、起動画面から手順に従って、古いMac(ここではiMac)からMBA M3へデータ転送を行います。
正味1.6TBをEthernet経由での接続だったので、残り57時間とか出てビビりますが、そのまま放置して就寝しました。
実際のところ、Ethernet経由があまりに遅いので、起床後にUSBで接続し直してまた放置。
Thunderboltが使えれば瞬く間なのかもしれませんが、たった一回の転送のためにThunderbolt2ケーブル(3,999円)+Thunderbolt3-Thunderbolt2変換コネクタ(6,314円)買うほどのお大尽ではありませんので……。
で。
翌日夜までに無事に転送が終わり、諸条件を整えつつ、ようやくメインマシンとしての佇まいが出来上がって参りました。
本当はデュアルディスプレイなので、並べたり側面に置いたりできるといいのですが、我が家にはそんな広間はないので、MBA M3はど真ん中で半開き状態。クラムシェルとしての使用は想定していません。
iMacをデュアルディスプレイ化するため、LunaDisplayを導入しました。USB-Cポートにドングルを挿してプライマリアプリをMBA M3に、セカンダリアプリをiMacに入れることで、Wi-FiやEthernet、USB経由でデータをやりとりしiMacをセカンドディスプレイにします。
残念ながら4K出力には対応していないので、iMacの売りであるRetina4Kの美しさは出ないのですが、それでもいざとなったら予備機として活躍できるiMacを側に置いておける安心感はあります。
遅延はありますが気になるほどでもなく、いまこうしてブログを書いている分にはまったく違和感ありません。
iMac Late2015では、連続して文字を打つとレインボーカーソルが出たり、ブラウザがフリーズしたりしていましたので、それがなくなった(本体はMBA M3なのですから当然と言えば当然なのですが)だけでも本当に嬉しいです。涙がちょちょぎれるのです。
デュアルディスプレイですから、MBA M3のモニタを上げればもうひとつの画面が登場します。iMacの21インチではもっぱらブラウザを、こっちで動画や音楽の再生、Photoshop、Illustrator、InDesignの作業を行うことになりそうです。ただ、大画面のほうが作業しやすいInDesignに関しては、iMacの21インチが作業場になるかもしれません。どっちがいいかな。
MBA M3を支えているのは、ソニックのブランドutrimの快適ノートPCスタンドです。
MBA M3はUSB-Cポートが2基しかないので、USBハブは必須です。前述したLunaDisplayのドングルがポートを1つ占有してしまうので、Amazonで買ったUGREENのUSB-Cハブ 10Gbps 4-in-1 USB-C 3.2ポートを取りつけ、そこからさらにAnkerのPowerExpand 8-in-1をつけています。
AnkerのPowerExpand 8-in-1はEthernetポートがあるので、有線LANを繋げております。
そして過去iMacに繋がっていたUSBハブをそのまま繋げてHHKB(有線)、外付けテンキー、TimeMachine用4TB HDD、外付け4TB HDD、外付け2TB SSDとBlu-rayドライブと……Bluetoothで繋がっているのはMagicTrackPadだけですね。線だらけだ。
でもまあ、これで外出中もInDesignで作業できるようになったし、ブングジャムを始めとしたトークライブでのスライド作成・操作も飛躍的に楽になります。
前々回も8年、前回も8年。
さあMBA M3よ、先輩たちに引き続き、8年がんばってくれよな……! -
旧年中はたいへんお世話になりました。
本年もよろしくお願い申し上げます。
さて。
改正景品表示法除けのために、今年からはこの一文を掲載させていただきます。
文具メーカー勤務。発言は勤務先とは無関係で、個人の見解・感想です。
まあ今までも、じっさいお目にかかった方の何割かにはご説明してきた話ですし、名刺交換をさせていただいた方もいらっしゃいますから「何を今さら」ではあるのですが。
というわけで、ブログに何かアップするのは実に2年ぶりですかね。
余裕がない生活をしているので、なかなかここに記事を上げるだけの時間が取れないのもまた事実でして。
でも、せっかくの場ですから。なるべく無理のない範囲で、こちらにも何か書いていこうかと思っております。
改めまして、本年もよろしくお願い申し上げます。
生で皆様にお目にかかる機会が、まんが大会ではなく文具マーケットに変わっております。
次回「第4回文具マーケット」は2024年1月24日(日曜日)、場所は大田区産業プラザPioでございます。
今回Web年賀状の素材に使用した絵は、この文具マーケットにて頒布する同人誌の表紙となります。
文房具小説文庫本『メカニカル・ファウンテン1.5』は頒価500円でございます。こちらも是非宜しくお願い申し上げます。 -
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「悪いねー、ラピッドグラフのカートリッジは扱いがなくてさー」
そうはっきり言われてしまっては、画翠も二の句が継げない。
「取り寄せは……」
「できるけどさー」
店主は、さも面倒くさそうな表情で画翠を見やる。ただ、その口許には笑みが浮かんでいた。そう、店主も判っているのだ。こっちが本当に欲しがっているってことを──だから彼も、つい笑顔を返してしまう。
「とりあえず消しゴムはこっちでいいらー」
店主はKeepをひとつ摘まみ、画翠に向けて見せた。そう、画翠はシードのRaderよりもホシヤのKeep派なのだ。
「あ、お願いします」
このミカワヤ文具店に通うようになって、二ヶ月が経過していた。店主にも、週に一度は必ず現れるこの天然パーマの大学生の好みが判ってきたようである。
「それと、ケント紙を。そう、ミューズのケントブロックで。B5でお願いします」
画翠はポケットからしわだらけの一〇〇〇円札を取り出して、レジカウンターに置いた。店主は鼻で笑うが、やはり口許には笑みがこぼれている。
「ありがとうねー」
釣り銭を返し、商品を紙袋に入れながら、店主はさも今思いついたかのような口ぶりで呟いた。
「ああ、あそこならあるらー」
「あそこ?」
商品を受け取り、画翠はつい鸚鵡返しに訊いてしまう。
「あそこって?」
「ああ、トモエさんのとこらー。うちより古い、明治の最初ンころから店をやってるところでさー。最初は筆とか半紙とかが主だったらしいんだけど、徐々に製図用品とか画材とか置くようになってさー。うちより狭いのに、うちより専門的な品揃えになってるからさー」
画翠は釣り銭を上着のポケットに突っ込み、ジーンズの尻ポケットから5×3カードを取り出していた。
「住所、教えてもらえます?」
「ああ、行きゃー判るらー。楽寿園の先、静銀の手前あたりだからさー」
画翠は胸ポケットから出したプレスマンで、「らくじゅえんの先」と5×3カードに大書した。
楽寿園の漢字は思い浮かばなかった。彼はまだ、この土地の地名を総て知っているわけではない。
武田画翠がこの街に住むようになったのは、今年の三月末からだった。
ここにある大学に合格し、四月から新入生として通っている。
最寄りの駅から大学まで、徒歩で一〇分ほど。彼が下宿する学生寮はその先さらに五分ほど行った場所にある。
近いことはいいことだと最初は思っていたが、学生寮と大学の往復だけで過ごした一週間で、画翠はすでに不便を感じ始めていた。
欲しいものが手に入らないのだ。
学生寮と大学の間でまともな小売店と呼べるものは、スーパーマーケットのヤオハンだけだった。
本屋も、文房具店も、コンビニエンスストアも、ない。
彼が特に欲していたのは、文房だった。
大学の購買コーナーにあるのは、授業を受けるのに必要最低限のものだけだ。鉛筆、消しゴム、シャープペンシル、シャープ芯、ボールペン、ノート。それも、種類も少なく、一〇〇円定価の安価なものばかりである。
高校時代は漫画を描き、地元の有志と同人誌を編むようになっていた画翠は、次第と文房具を選ぶようになり、その興味も拡大していた。一般的な筆記具だけでなく、製図用品や画材にも守備範囲は及ぶようになり、手に合うだろうと思われるものは積極的に試す毎日だったのである。
実家の近くには、行きつけの文房具店が何軒かあった。自転車で回ることができたので、多少の距離も厭わなかった。だが、学生寮には自転車を持ってきていない。また、この街の情報も決定的に足りない。
画翠は学校と寮の往復をやめ、大学の帰りは可能な限り町を歩き回ることにした。
欲しい情報は三つある。
まずは文房具店。
次に本屋。
そして、レンタルビデオショップ。
この三つを発見すべく、画翠は桜が散り青葉が茂る町並みを歩き始めた。
画翠は自分の名前を嫌っていた。
名前負けしているといつも思っていた。
一浪しているので、今年で二〇歳。身長一六八センチ、体重五九キロ。まさに中肉中背であり、茶色がかった天然パーマに丸眼鏡は特徴的ではあるものの、「画翠」というインパクトある名にふさわしい何かを備えているわけではない。
その名は父母ではなく、親戚のようにつき合っている向かいのおじいちゃんがつけてくれたのだ、と父がいつも自慢げに言っていたのを思い出す。
まるで画家になれ、と言わんばかりの名前だが、向かいのおじいちゃんが言うには、画翠とは「緑色で描かれた絵のような、爽やかで力溢れる草原のイメージ」なのだとか。
画翠は自分の名前を嫌っていた。
ただ、同人誌で漫画や小説を発表するとき、この名前が実にペンネームっぽくて評判がいいということに気づく。
生まれて初めてのオフセット印刷された同人誌は、一〇〇部のうち二〇冊しか世に出て行かなかった。ただ、手売りした相手のほとんどが、自分の名前を話題にした。
「いいペンネームですね」と──。
なので画翠は、自分の名前を「生粋のペンネームである」と解釈することにした。
それ以来、気が楽になった画翠は、この歳になってようやく自分の名前が好きになりつつあった。
画翠は暇に飽かせて、町をぐるぐると歩いて回る。
本屋は小規模なところを何件か発見したが、毎日入り浸るような魅力的な店は発見できなかった。
レンタルショップは駅近くにちいさな店を発見したが、本来ならレンタル禁止のはずのレーザーディスクをレンタルしているので、危険な店なのではないかと思い二度と敷居をまたいでいない。
学生寮をさらに北上すると、普段訪れない方向にローソンができたことを知った。
大学の前を素通りし、駅に向かう途中で発見したのが、現在では行きつけとなっているミカワヤ文具店である。
駅から大学に向かうときには、画翠は普段、駅に近い歩道を歩いている。ミカワヤ文具店は車道を挟んだ反対側にあったので、その存在に気づかなかったのだ。
だが、店舗は決してちいさくはない。顔を上げて歩けば視野に入るはずの場所だった。なぜこの位置にあるこの規模の文房具店が発見できなかったのか──画翠は自分を責めると同時に、小躍りしてさっそく店内に入ったものである。
地方にある文房具店としては標準的な品揃えで、近所にある学校や簡易裁判所への納品もこなす、その街でも要となる存在だった。店主はやや皮肉っぽい行動を取ることもあるが、根は優しいひとだった。
ただ、画翠の趣味はややマニアックな方向に傾倒していたので、ミカワヤ文具店だけでは彼の注文に応えきれないこともある。画翠とて、遊びで店に来ているわけではない。別の店を開拓する必要があると思い始めたのが、最近──梅雨に入って天気がぐずつくようになったこの六月である。
そして今日、また新たな出会いがあるのだ。
わくわくが止まらない。
傘を綴じ、アーケード街に入ってすぐ、画翠は目的地に着いたことに気づく。
「トモエ……堂……」
ミカワヤ文具店からかなり歩いた気がしていた。
アーケードがあるので、明かりが射さず看板が目立たない。
かなり古い看板である。木なのか、銅板なのか、素材すらはっきりしない。
巴の紋が彫り込まれている。その紋の下に、トモエ堂文具店、の文字。
引き戸は開け放たれている。木造の建物で、幅は狭いが、奥行きはあるようだ。外から見ると、棚が入り組んでいて店の奥がどのような構造なのか判然しないのだ。そして薄暗く、静寂が支配している。
画翠はもう一度、引き戸の上にある、壁に取りつけられた看板を見る。
巴の紋は──画翠の知る、どの「巴」でもなかった。
四つ巴、だ。
四つの玉が尾を引き、互いを追うかのように丸く配置されている。
画翠はしばらく看板に見入っていたが、思い直したかのように身体を捻り、店内に足を踏み入れた。
土間だった。
よくある、タイルやリノリウムの床ではなかった。三和土で仕上げられた土間である。
周囲の什器も、背が高い。文房具店と言うよりは、古書店に近い印象を受ける。
棚には整然と文房具が並べられていた。低い位置には引き出しや棚があり、手の届く位置は筆記具を中心とした、立てて置くための筒状の什器が据え置かれている。それより高い位置には扉で閉ざされた棚がある。何が入っているのかは、一目では判らない。
入り口近くにあった傘立てに傘を置いた瞬間──
「──いらっしゃいませ」
店の奥から声がした。
若い。
いや、幼いと言っていいだろう。少女の声、だった。
2
店内に人影はない。
自らの呼吸音が空間を支配しているのではないかと錯覚するほどに、静かである。
声の大きさから言っても、予想より遙かに近いところにその少女はいる──はずだった。
いるはずなのだが、気配すら感じ取ることができない。
画翠は声の方向を確かめるべく、木製の棚を迂回してさらに店の奥に歩を進めた。
二本の棚をやり過ごすと、その一番奥に、まるで時代劇に出てくる呉服問屋のような光景が拡がる。
畳の座敷があり、木の枠で囲まれた帳場がある。左脇は土間がそのまま通路となり、のれんがかかった壁の先に吸い込まれ消えていく。帳場の背後には青海波が無数に描かれた古めかしい襖がある。この先にも何か部屋があるのだろう。
そして、その帳場の中に、声の主は、いた。
「いらっしゃいませ」
もう一度、声がした。さっきよりもはっきりとした、そして若干の事務的な冷たさを含んだ物言いだった。
「どうぞご覧下さい。判らないことがありましたら、お尋ね下さい」
画翠は少女を見る。
少女は表情ひとつ変えない。視線も手元を見つめたままで、画翠に向けられることはなかった。
もっとも、画翠は少女の視線を追うことができたわけではない。
少女の前髪は長い。完全に両の目を覆っている。外から見て、少女の視線を追うことは不可能だった。
前髪が不自然なほど長いわりには、髪全体はショートカットと呼べる長さである。帳場に正座しているので正確な身長は判らないが、全体的に小柄で華奢な印象を与えている。ノースリーブのスウェットパーカーから露出している腕は細く、未成熟な印象を与える。──中学生くらいか?
かさり、と音がした。少女の手元にあったものが紙であり、少女は鉛筆で紙に何かを書いていたことを画翠は知る。
──原稿用紙? 満寿屋か? それとも相馬屋?
画翠は自然と、店内のどこかにある原稿用紙の場所が気になって、店内にひしめく文房具に目を移す。少女から視線を外し、店頭方向に目を向けた瞬間から、少女の気配は消え、画翠には文房具のことだけが情報として入ってくる。
そうだ。ここなら、欲しかった文房具が手に入るかもしれない──画翠の脳裏に浮かんだものは、ミカワヤ文具店で購入できなかったロットリング・ラピッドグラフのインクカートリッジと、あのときは思い出せなかったホッチキスの針のことだった。
画翠は少女の存在を忘れ、また棚の間を徘徊し始めた。どこに何があるか判らない店内は、彼にとって秘境を探検するに等しい喜びを与えてくれる場所だった。
ロットリングの棚はすぐに見つかった。什器に整然と並べられた製図ペンたちに、画翠は心奪われる。製図そのものを行うわけではないが、ロットリングの正確無比な細い筆跡は、彼の心を捉えて止まない。同じ棚に並ぶ雲形定規や製図用コンパス、ディバイダーの類いもまた、彼には眩しい存在だった。
「いいコンパスだな……これはコクヨ、こっちはステッドラー。それにシンワ測定やドラパスまで……すぐ必要なことはないけど、これは欲しい」
物欲が湧き出てくる。が、画翠はすぐに思い直し、ホッチキスの針を探し始める。コピーで同人誌を作成する際に使用する、錆びないステンレス針が欲しかったことを思い出したのだ。
「こんにちはー」
店頭で声がした。新しい来客があったようだ。
「いらっしゃいませ」
「あ、セイカちゃんいたんだ。店番いつも偉いわねえ」
棚の向こう側では、顔見知りと思われる女性客と、店員である少女の会話が行われている。画翠は聞くともなしに、この会話を耳にしながら目当てのものを探していく。
「いえ。もう慣れましたから」
「そうかいそうかい。ああそうだ、息子の帳面が欲しくてね。連絡帳ってやつで、ちいさい方。あと、安いのでいいので、お習字用の筆と、それから絵の具の白と、短い定規も。学校でなくしちまったって言うからさ」
軽く目を上げると、帳場に座る少女の姿が棚の隙間から見える。
「棚に番号があるの、判りますか?」
「ああ、知ってるよ。上に出っ張ってる木の板に書いてあるアレだよね」
言われて画翠も視線を上げる。なるほど、天井に貼りつく高さの棚から、教室番号を掲示するような木の板が張り出している。自分の目の前の棚は六番だ。
「学習帳は二番、習字の筆は三番、絵の具は五番、定規は六番です」
視線を少女に戻したとき──画翠は信じられない光景を目の当たりにする。
少女の背後が輝き、そこから四つの魂──画翠にはそう形容するしかなかった──が迸り出て、四つの棚に向けて宙を舞ったのだ。
そのうちの一つが、しゃがみ込んで下の棚を覗いていた画翠の頭上に飛んでくる、そして手もない魂が定規を棚から少しだけ通路側にはみ出させ、また少女の元に返っていく。
目が合った。
魂は、にやりと笑った。
ような、気がした。
「二番、三番、五番、あと六番ね。ありがと」
客は順に棚を周り、欲しかった商品を手にしていく。立ち上がることができず呆然としている画翠に「ごめんあそばせ」と声を掛け、頭上に手を伸ばして魂が用意してくれた定規を取り上げた。
無言でそれを見つめる画翠。そんな彼を尻目に、女性客は商品を帳場まで持っていく。
少女がはじめて、笑顔を見せた。
「ありがとうございます」
──さっきのは何だったんだ。
画翠は自問する。
──幻か。錯覚か。
画翠は自答する。
──あの女性には、あれは見えていなかったようだ。だとしたら、幻覚だ。
現実的に言って、文房具店で魂の乱舞はあり得ない話である。
帳場にいる少女は、何事もなかったかのように会計を済ませ、ゆっくりとした動作で商品を袋に詰めている。
自分だけが惚けて座り込んでいる。
おかしいのは、自分だ──画翠は思い直し、ゆっくりと立ち上がった。
女性が去った後、手にしたロットリングのカートリッジを購入すべく、帳場に向かって歩み始める。
「あの……」
「はい。ありがとうございます」
少女の口許に笑みが生まれる。近づいても、やはり前髪に隠された目はまったく見えない。
「さっきのは……」
口に出して、しまった、と思う。訊いてどうするのか。幻視を説明できるのか、と。
「あ、渦巻のおばさんですか?」
少女は渡されたカートリッジをぎこちなく袋に入れながら、画翠の思いとは異なる返答を発した。
「凄いですよね。いつもああやって矢継ぎ早に欲しいものを言って、嵐みたいに店内を巡って、買ったらすぐ帰っていくんです。本当は菅公さんって言うんですけど、すごい勢いでお店の中をぐるぐる回ってすぐいなくなるから、あたしあの人のことを渦巻のおばさんって呼んでるんです」
画翠は開いた口がふさがらない。ただ呆然と、包装が終わるのを待つしかなかった。
──ぐるぐる回っているのは、あのおばさんではなく、君の上を飛び回っている白い魂のようなものなんだけど……
また、つい口から出そうになって、画翠は強引に口を閉ざす。普段使わない筋肉を駆使して、強引に唇に力を込めた。
「悪趣味ですかね?」
少女の口許がWの形になっている。画翠は、自分の口許はΛになっているのではないかと想像した。
「……見えたんですね?」
くしゃくしゃになった一〇〇〇円札を渡そうとした画翠に、少女は優しく語りかけた。
「見えた人、家族以外では初めてです」
おつりをそっと画翠の手に載せ、両の手で覆い被せるように包み込む。右手が包帯で覆われているのが見える。握られた感じから、力を入れることができない様子であった。
「あまり他の人に言わないほうがいいと思いますよ。信じてもらえないと思いますし」
握られた手が、そっと離される。画翠は視線を、自らの手から少女に移す。
少女の背後に、後光のように四つの魂が放射されているのが見えた。
「またのお越しを、お待ちしています」
店を出ても、まだ幻が見えているようだった。少女の言葉が脳内に反響している。まだ手が震えている。そして、手を見るたび、少女の包帯の感触が蘇ってくる。
どういうことなんだ──ぼんやりとしたまま、気づけば寮に辿り着いていた。
画翠がステンレスのホッチキス針を買い忘れていることに気づいたのは、翌朝のことであった。 -
1
「さいきん仕事がうまくいってなくてさー」
──ケンちゃんと会う時って、だいたいこの台詞から始まるんだよね。
早川知恵はいつも通りに眉根を潜め、健からのねっとりとした視線を受け流す。
「ほら、俺って今までこれといった努力もせずに、まあまあいい人生を送ってきたわけじゃん」
言いながら大ジョッキのビールをあおる。
「でさ、小学校と中学校はたまたま住んでた場所にいい学校があってさ、そのまま塾にも行かず普通に授業受けただけでちょっといい私立高校に受かってさ」
どん、と置かれたジョッキには、なみなみ入っていたはずの茶色い液体が半分になっている。
「大学は最高じゃなかったけど、でも俺好きだったよあの大学」
知恵は半眼になって健を見遣る。
去年から交際しているこの男──飛鳥健とは、大学のサークルで知り合った。
珈琲焙煎研究会は大学非公認だったが、学生ホールでの勧誘会で香ばしい香りに誘われ、説明を受けまいかどうするか迷っている時──そこに大股ですたすたと近づき、「どう? ちょっと寄ってく?」と声を掛けてくれたのが、四年生の健だったのだ。
その後の新入生歓迎会で隣同士になり、なぜか知恵が飼っているパグの話題で盛り上がり、そこから交際が始まったことを、まるで昨日のことのように思い出す。
天然パーマを隠さないちりちりの短髪。毎日は剃らないのか、うっすらと髭の跡が残る細い顎。太い眉毛はそれなりに整えてあり、切れ上がった目つきは爽やかな印象を振りまいていた。
だが、知恵の脳裏にある健と、いま眼前に座り鯨飲馬食を繰り広げる健とは、レイヤーで重ねても相貌が一致しない。
「うめえなこの唐揚げ。知恵も食べろよ」
言うが早いか、タブレット端末を取り上げて健はビールを追加注文する。テーブルの上には、唐揚げ、フライドポテト、牡蠣フライ、焼き鳥、サイコロステーキが所狭しと並ぶ。
「しかしさ、この俺の潜在能力の高さを持ってしても、やっぱり仕事ってやつは難しいな。もう毎日失敗の連続さ。それもここで話して笑って済まされるやつじゃなくて、もっとちっちゃくてせせこましくて、でも毎日きっちりやらないとお客さんに怒られちゃうやつ。まあ、お客さんより前にたいてい課長に怒られるんだけどな!」
へらへら笑いながら、フライドポテトを五本ほど一気に頬張る。たわんだ頬がもちゃもちゃと蠢動し、顎肉がたるんたるんと揺れた。
「こないだもさ、お客さんとこで書類もらってさ、帰ってきたら足りないんだよ。で、もっかい取りに行こうと思ったら課長から『往復二時間かけて書類一枚じゃ効率が悪すぎる。相手に説明してPDFをメールしてもらえ』だとさ。営業マンは対面が生命、状況説明と笑顔で納得頂いてこその営業マン! ここで失敗を挽回しつつ先方に気に入ってもらう作戦、悪くないと思うんだけどなー」
言いつつ、追加で来たビールをごぼごぼと胃に流し込む。
「でさ、こういっちゃなんだけどさ、万能天才であるところの俺もさ、電話ってやつだけは大の苦手でさ。掛かってくるヤツはもう機械的に出て対応できるんだけど、掛けるのがホント苦手でさあ。電話って相手の表情が判んねえだろ? 何となくビビっちまって他の仕事してたらあっという間に一時間。それでまた課長につつかれてさ」
「……やる気あんの?」
知恵が言う。
「そうそう、課長の言い方そっくりだ! 判ってるねえ知恵ちゃん」
この話題は初めてだったが、それ以外の健と課長とのやり取りはうんざりするほど聞かされている。知恵には、面識こそないが課長の口調も表情もはっきりと想像できた。
「で、結局平謝りして書類をメールで送ってもらってさ。もうヒヤヒヤもんだよ」
ヒヤヒヤするのはあたしもおんなじだよ──知恵はそう言おうとしたが、口を開こうとしたその上に、さらに健がかぶせてくる。
「でさ、その取引先ってのがさ、入谷にあるんだけど、電車じゃ行けなくてバスを乗り継ぐんだ。うちは貧乏メーカーだから、営業車ってやつがなくてさ、電車かバスかタクシーで営業回りすんのね。俺は新人だからタクシーは禁止で、電車とバスで回るんだけど、まあそのバスがないない。一時間に二本くらいでさ、しかもその取引先の周りは食い物屋がないから昼前に行ってバスで駅に戻るか、駅で昼食ってからバスで向かうかの二択しかないんだ」
しらねーよ、と唇を動かそうとしたが──知恵は思いとどまり、ずっと避けていた健の視線に目を向ける。
「あのさ」
「何?」
「今、体重何キロある?」
「……最近は測ってねーけど……正月に実家で測ったときは……六九キロ……」
「身長は?」
「……一七〇センチ……」
「大学卒業するまでの体重は?」
「……たしか……五九キロ……」
知恵はいったん言葉を切り、ストローで烏龍茶を吸い上げる。
健はその知恵の行為を瞬き一つせず凝視する──するしかなかった。
ぐびり、と喉が鳴る。飲んでいる知恵のではなく、健の喉から出た音だった。
知恵はストローから唇を離し、ひと息ついてから、こう告げた。
「別れよっか」
2
あれ以来、知恵との連絡はいっさい取れなくなった。
健はLINEを開き、毎日のように「元気か?」と入力し送信する。
知恵の既読はつかない。
あの晩、どうやって帰宅したのかも定かではない。気づけば健は自分のアパートにいた。
財布から現金は減っていなかった。知恵が払ったのかもしれない。後で確認したが、クレジットカードの支払い明細にも載っていなかったし、モバイルSuicaやペイペイの履歴にも支払いの事実はなかった。
知恵が自分に愛想を尽かした、という事実が健に重くのしかかる。
翌日の午後から、経験したことのない偏頭痛に見舞われた。
夕方には、かつてないほどの肩こりで腕が上がらなくなった。
それ以来、注意力は散漫になり、仕事でのミスが激増した。
課長は健を個人的に呼び出し、面談を行ったが、健自身も不調の理由を説明できない。
原因は判っている。だが、理由は判らないのだ。
一度の挫折も経験せず、健は社会人になっていた。
小学校や中学校ではそれなりに成績優秀で、体育もそつなくこなした。得意なスポーツはなかったが、かといって苦手な種目もなかった。
高校は通える範囲で一番の私立高校に合格した。彼の両親は、大学は東京の私学に行かせる腹づもりだったため、受験勉強に特化したクラスで彼はそこでもそつなく過ごした。
大学は第二志望の私立B大学だったが、両親にも彼自身にも不満はなかった。両親がアパートの代金を、光熱費と生活費は自らアルバイトで捻出することを条件に、健ははじめての独り暮らしを東京で始めた。
大学では法律を学んだ。ゼミではジャーナリズムと法律について研究をしていたが、法律そのものに興味は持てずにいた。喋るのが好きだったので、営業職が向いているのではないかと勝手に解釈し、彼自身は業種を特定せず、なんとなく広範囲に就職活動を行っていた。
運良く小さな玩具メーカーに就職した彼は、そこで三ヶ月の研修を受けた後、営業マンとして都内の問屋を回る部署に配属となる。
ここまでは、まったく努力もなく、ただ流れと勢いだけの人生だった。楽な生き方をしてきて、泥水をすすることもなく、ただまっすぐの道を自分のペースで歩んできた。それで何の問題もなかった。
だが、ここから先は挫折の連続だった。
彼は現場に出て経験さえすれば総ての知識はつくものだ、与えられるものだと過信していた。
彼の職場は課長が一名、係長が二名、その下に部下が二名ずついるだけの少数部隊だった。彼を直接教える立場にある係長と先輩社員は、地方に顧客がいる関係から出張が多く、月初と中間打ち合わせ、月末の月に三日しか本社にいない。もうひとつの係は仕事が違うため、健に何かを教えてあげられるわけではなかった。
健は課長直属に近い形で仕事を始めたが、課長は社内業務と大手取引先との商談に忙殺され、健と社内で話し合う時間すら持てない状態だった。徒手空拳で挑む健は取引先で揉まれ、不手際を起こし、その不手際も健は課長に直接報告できない。日報をパソコンに入力して帰途に就く二一時すぎでも、課長は席に戻らない日が続いた。
結果として、毎朝──日報を見たり事務員からの電話メモを見たりした課長が、健を叱り飛ばす光景が繰り広げられることになる。
健のやる気は日々削がれていった。相談できる人が側におらず、今まで通り経験則で体当たりするとかなりの確率で失敗する。報告も億劫になってしまい、日報が溜まって対応が後手後手になる。取引先からの苦情も増え、課長も健の行動を問題視せざるを得なくなっていく──。
そんな悪循環が、昨年七月から今年の三月末まで繰り返されていた。
健は大学時代、簡単な自炊で夕食を賄っていた。だがそういった心の余裕も次第になくなり、配属後はアパートの近所にある居酒屋で呑んで食べ、帰宅後は酔ったまま寝るような生活パターンに陥っていく。
あんなに好きだった珈琲も、毎朝豆を挽くのが億劫になり、粉で買うこともなくなり、インスタントすら面倒で飲まなくなってしまっていた。
すたすたと大股ではや歩きするのが特徴だった健だが、この頃には階段の上り下りで息を切らすようになっていた。
総てが悪循環だった。
そして、そこに追い打ちを掛けるような、知恵の態度。
目の前が真っ暗になったような気がして、健は課長の許可を得、有給休暇をもらい近所の内科に相談に来ていた。
「血液検査の結果で言えば、異常値はありませんね。数値が上限ぎりぎりのものは散見されますが、すぐに改善しなければならないというわけでもない」
老医師は暗く落ち込んだ表情の健に、こともなげに告げる。
「体力が落ちているようですし、適切な休息と──あと、体重は落とした方がよさそうですな」
簡単に言うなあ、と思いつつ健は内科を後にする。
iPhoneを見ると、課長からのLINEが入っていた。
「明日は出社できるか? 説明したいことがある」
健はめんどくさそうに「行きます」とだけ返信した。
3
「販売促進課より転属になりました、東条未来と申します」
長身の女性はひらりと頭を下げた。健はその姿を、自席で立ったまま見つめる。先輩たちがぱらぱらと拍手をし出したので、健も合わせてけだるげに手を叩いた。
「四月期の配置転換は珍しいのだが、わしのたっての依頼で彼女はここに来てくれた。飛鳥を除けばみな知っての通り、東条はわが営業課の生え抜きの営業ウーマンだった。去年、販売促進課に引っこ抜かれたときは人事に猛抗議したくらいだ。代わりに新人の飛鳥が入ったわけだが、都内全域をわたしと飛鳥だけで網羅するのは無理がある。そこで再び、彼女には古巣に戻ってもらうことにした」
「飛鳥さんとは初対面になりますが、他の皆様とまた同じ仕事ができることを嬉しく思っています。改めまして、宜しくお願いします」
未来はそう言って、再度ひらりと頭を下げた。
健はそんな彼女について、その後課長と未来自身から、じっくりと話を訊くことになる。
「入社八年目になります」
未来は落ち着いた口調で、対面に座る健に話しかける。会議室に空きがなかったので、特別に借りた役員接待のための応接室は、ソファがふかふかすぎて、健には居心地の悪い場所だった。
「彼女はわしが課長になりたての時、この営業課に配属になった」
未来は最初、この営業課の営業事務担当だった。
しかし彼女の能力は内勤にはもったいないと課長が判断し、二年目より営業担当に抜擢される。それ以降、未来は数年にわたり課長とタッグを組んで外回りを始めることになったのだ。
「で、去年、お前が新人でうちに入ることが人事で決定され、自動的に東条は人手が足りない店頭支援の部隊に回されたんだ」
「ということは──」
「入社八年目ですけど、想像より若いんですよ」
落ち着いた口調で未来は言う。だが、健はにわかには信じることができない。
眼前にいる、グレーのスーツに身を包み、黒髪ストレートの髪から大きめの耳が覗くこの女性が、わずか二歳年上なだけだとは到底思えないのだ。
大きめの眼鏡の中では、糸のように細い目が微笑んでいる。唇に惹かれたルージュは紅く、顎は尖り気味だ。その口から、顎から出てくる言葉のひとつひとつが、実に落ち着いていて奥深い響きを伴っている。
「彼女のこの落ち着いた態度は、入社以来まったく変わっておらん。取引先でも好評だった。だから、お前の評判が悪いのはお前のせいだけではないとわしは思う。東条と較べれば、わしもたぶん評判の悪い営業マンになってしまうだろうからな。だが、厳しいことを言うようだが、お前も現場で九ヶ月やってきた。もうただのド素人ではない。OJTが行き届かなかったことはわしに責任があるが、これからはお前に本当の意味での教育をすることができる」
未来を観察していた健は、課長の言葉に慌てて返す。
「え、今なんて……」
「我流が通用しないことは判っただろう。教育できなかったわしも反省している。今日からは、東条がお前の教育係だ」
「え」
視線を課長から未来に戻す。
未来はにっこりと微笑んでいる。
「今日から三ヶ月間、お前と東条は二人三脚だ。七月に二年目になった時、お前を独り立ちさせる。この三ヶ月でビギナーを卒業しろ」
「え」
また未来から課長に目を移す。
「タイムリミットは三ヶ月。判らないことは自分で判断せず、総て東条と相談しろ。東条はいっしょに営業に出るが、現場ではいっさい口出しせんし訊かれたことしか答えん。どんどん訊いて、身体に叩き込め!」
今度は声も出ない。健の視線だけが、未来と、課長の間をぐるぐると回っていた。
4
「宜しくお願いします」
席に戻り、健は未来にまず頭を垂れた。今までの人生、意味もなく自信満々で、状況に合わせひとりで何でもやってきた彼にとって、初めてのマンツーマンの教育係──言い方は悪いが、健には未来は課長から派遣された監視役に思えてしまう。
「課長はああ仰ってましたけど」
未来は打ち合わせ机から椅子をひとつ移動させ、健の席の隣に座った。
「気楽に行きましょう。訊かれたらもちろん答えますけど、それ以外にもちゃんとフォローもアドバイスもします」
眼鏡の奥の糸目が、さらに細くなる。
「はい、判りました……えーと、まずは何をすればいいですかね……」
おっかなびっくり訪ねる健に、未来は穏やかな口調で告げる。
「今日明日は事務整理と、今後の営業のやり方について考えましょう」
「はい」
健は塾や家庭教師を経験したことがない。個人授業を受けるということは、こういうプレッシャーを感じ続けることなのか──と独り勝手に肝を冷やしていた。
「幸いなことに、課長にお伺いしたところ、今週は重要な仕事はないそうなので。実際の外回りは来週から再開することにして、まず現状を把握させてください」
未来はそう言うと、営業に関する資料を健に用意させた。ほとんどの情報はサーバーに蓄積されているので、彼の仕事上のデータは机上にあるパソコン、あるいは外回りで閲覧するためのiPadで確認することができる。
未来は健のつたない説明に従い、それらの情報を閲覧していたが、ふと視線を外すと彼の手許や胸元を確認し出した。
「何でしょうか?」
チェックされてる──健はそう感じ、冷や汗を掻きつつつい大声を出してしまう。
「あ、いえ、ごめんなさい。訊いたこと、訊かれたことをいっさいメモに取らないので、記憶力がいいのかしらと」
健ははっとする。確かに受け答えの際に間違ったことは言っていない自信があるし、未来に言われた今この場でのアドバイスは反芻できる。ただ──明日になったら、この記憶はどうなるのか? 思い出し、受け止め、活かすことができるのか?
「すみません、ぼーっとしていました。記憶力は良い方だとは思いますが、確かにメモは必要です」
慌てて返答から、またはっとする。配属になった初日、課長にも「憶えるのもいいが、忘れないように、反芻のためにもメモを残せ」と言われていたのを、今さらながらに思い出したのだ。
「わたしも課長に、入社して最初に言われました。何でもいいから書け、と。だからメモとペンは欠かさないようにしています」
未来はジャケットのポケットから、小さなリングメモを取り出した。
「これ便利なんですよ。〈パッとメモ〉って言って、空白のページが必ず開くようになっているんです」
と言われても、理解できない。健は返事を忘れ、手許のメモを覗き込んだ。
「判りますか。リングメモって、天面にリングがあって、穴の空いたメモ用紙が綴じてありますよね。このメモ用紙が、左側の側面だけ糊でくっついてるんですね」
未来はメモを持ち上げ、手首を返す。塩ビでできた表紙と数枚のメモがリングを軸に背面に回り込み、〈パッとメモ〉は彼女に白い未記入のメモ欄を見せた。
「使ったページは、側面の糊からはがしておくんですね。そうすると、急いで書きたいとき、白紙のページをこうして一発で準備することができるんです」
細くすらりと整った未来の小鼻が、わずかに膨らんだ。
「ペンはこれです」
続けて、彼女は胸元からローズピンクに輝く細身のボールペンを取り出した。
「〈アクロ1000〉です。細く、濃く、なめらかに書けて、女性のスーツみたいな狭いポケットにもすっと収まります。お洒落でありながら実用的で、この握る部分のほんの少しの膨らみが好きなんです」
そう言いながら、未来は健にボールペンを手渡す。彼はおずおずと受け取り、グリップ部分をまじまじと見てからそっと握ってみた。金属軸だが塗装のせいか冷たさは感じない。重心が適度に先端に集まっているのを、指先に感じた。未来が言っていた膨らみの部分だ。
「いま油性ボールペンは、この低粘度油性という、なめらかに書けるインクが主流になっています。細い線がすらすらと、しかも黒々と書けるんです。書き出しがかすれる心配もありませんし、一〇〇〇円という価格のわりに高級感もあります。一〇〇円の透明軸も大好きなのですが、取引先で取り出すペンとしては胸ポケットから見えていても違和感のない、このペンを愛用しているんです」
失敗コピーの裏紙に、〈アクロ1000〉で書いてみる。途切れることのない黒々とした細い線が苦もなく書ける。
「飛鳥さんは、仕事とか物とかにこだわることはありますか」
健はその質問を耳にし、ぐるぐると書き散らしていたボールペンの線を止めた。
「こだわること……」
言葉は知っている。辞書を引けば第一義には否定的な──気にしなくてもいいようなことを気にしすぎる、という意味が出てくる言葉だ。ただ健の認識では、決して否定的な言葉ではなく、むしろ「趣味人の粋」のごとく、比較的いい意味で使用される例が多いような気がする。
こだわりはありますか──そう言われて答える言葉がない自分に気づき、健は動揺した。
仕事にこだわりはない。否、こだわりどころか、関心すらない。体験を増やしてもっと営業を上手くなろうとも思わないし、別の勉強をして自分を拡げたいとも思わない。メモも取らないし、机の引き出しに転がっているボールペンはさっき未来が明確に持ち歩きを否定した、透明軸の名もなき支給品だ。唯一こだわりと言えば珈琲だったが、それも豆を挽かなくなってずいぶん経ってしまっている。
いきなり深いところをえぐられた気がした。仕事とは──自分にとって仕事とは何か?
健は答えられない。ペン先はぐるぐるをやめ、あるひとつの言葉を書いたっきり止まっている。
「……飛鳥さん?」
未来は裏紙に仕事と書いたまま固まってしまった健に、やや戸惑ったような声音で尋ねる。
「正解はありませんよ」
言うが早いか、健の手から〈アクロ1000〉をそっと取り上げ、自らの胸ポケットに滑り込ませる。健はペンを奪われたことすら気づかない。
「仕事だけじゃないです。何事にも、正解はありません。やってみて、上手くいかなかったら別の方法でもう一回やってみる。ただそれだけです。その別の方法を指南するのが、わたしの役目です。いきなり成功することはめったにないですし、失敗しても生命を取られることはありません」
眼鏡の奥の糸目が笑みかける。
健は答えられない。
ただ、ようやく、頷くことだけはできた。
「……宜しくお願い致します」
「じゃ、午後はさっそく」
未来は椅子に掛けてあったバッグを持つと、やおら立ち上がった。健はその姿を目で追う。先ほどの質問でショックを受けたその身体は、まだ思うように動かすことができないでいた。
「わたしはこれから課長と昼食ミーティングがあります。帰ってきたらいっしょに出かけましょう。課長、午後の外出よろしいですか。飛鳥さんの仕事道具を買いそろえてきます」
健は頷くしかできなかった。
その日の昼食は社員食堂でひとり、カレーライスの大盛りを食べた。だが、味は判らなかった。 -
第一話
情熱と冷静
真新しいフロア内に、終業時刻を告げるチャイムが鳴り響く。
「今日はぜんぜん仕事が進みませんでしたあ!」
五月最初の終礼は、桜の元気な敗北宣言で締められた。
「仕事どころか……お前、ぜんぜん駄目だよ……」
それを耳にした先輩の竹林が、頭を抱えて呻く。
「まあまあ。今日は引っ越しが中心だったし、仕事に支障が出ているわけでもない。秋山、ゆっくりでもいいから確実に憶えていくんだ」
そう告げると、業務係長の山栗は微笑みの表情を崩さないまま、毎日の日課を桜に課した。
「さて、秋山。今日のメモは?」
「はいッ!」
桜は笑顔を崩さず、机上に拡げてあったキャンパスノートB5を取り上げ、ページを繰って中を読んで見せた。
「えーと、新しく支給された入館証を忘れないこと! ゴミは分別して捨てること! 入退館データは毎朝パソコンで確認すること! 机の上に物を出して帰らないこと! 女子ロッカーは整頓して使用すること!」
ノートを机上に戻し、山栗に向け敬礼する。
「以上です!」
「足りないぞ秋山……さっき私が言ったこと、憶えてるか?」
竹林が呻くように言う。桜は満面に笑みを浮かべ、振り返りつつ先輩に親指を立てた。
「忘れました! そういうタイプですからわたし!」
「はいはい終了終了。一八時までに退館しろよ。まえの事務所と違って、玄関ゲートを一八時までにくぐらないと駄目だからな」
山栗はふたりにそう告げると、机上の書類をアルタナハードバッグに詰めて壁面に連ねられた書類用ロッカーに向かう。他の係員も、みな思い思いのバッグや書類ケースを持って係長の後に続いた。
桜は手にしていたノートをアネロのリュックサックに放り込み、書類はそのままばさばさと抽斗に流し込んだ。竹林はぎょっとしたが、見ぬふりをして自分も書類をクリアホルダーごと抽斗に押し込む。
「そうだ、思い出しました! 先輩、これどうしましょうかね?」
桜は笑顔で竹林に訊く。手には、シャープペンシルが握られている。
三菱鉛筆のクルトガだ。
書くたびに芯が内部機構で回転し、片減りを防ぎ先が尖った状態を維持し続ける画期的なシャープペンシルである。桜が中学一年から使っているものだから、六年物ということになる。キャラクター柄ではなくシンプルなピンク軸だが、問題はその先端だ。
パイプが折れて曲がってしまってるのだ。
「え? いや、あの……お、おう……どうしようって、それもう書けないって、さっき言ってただろ?」
竹林は抽斗の中を見られたのかと勘違いし、異常なほどに狼狽しつつ答える。
「筆圧高い方かな、とは思ってたんですよわたし」
竹林はハンドバッグにスマートフォンを滑り込ませ、桜の言葉を無視し席を立とうとする。
「で、どうすればいいですかね?」
「新しいのを買えばいいだろ」
「どこで?」
桜はかわいらしく小首を傾げて見せる。そういう一切の挙動が、竹林の気持ちをざわつかせる。
「どこでもいいだろ!? 文房具売ってるとこなら! ここは銀座だぞ、店なんかいくらでもあるだろ!」
「知りませんよ。だって銀座に来たの、今日が生まれて初めてなんですから」
竹林は目をつぶり、首を振って眉間に皺を寄せる。
「会社を出ると、目の前が中央通りだ」
そんな竹林を尻目に、山栗がヴィトンのネヴァーフルを肩に掛けつつ、桜に説明を加える。
「会社を出たところをすぐ左に曲がって、目の前の交差点を渡ると、銀座一丁目。しばらく歩いて行くと、赤いクリップのついたビルが見える。それが伊東屋、銀座界隈で一番上等な文房具店だ」
「さすが係長! 大人の女は違いますね! 憧れます! ブランドとかいっさい興味ないけどわたし!」
「上司に向かってそんな褒め方があるか……」
頭を抱え、立ち上がる気力すら失せた竹林を尻目に、桜はリュックサックを背負うと、山栗に向けて敬礼した。
「では、お先に失礼しまーす!」
竹林はそんな桜の背後に向け、ひらひらと掌を振ってみせる。
山栗は一本に縛っていた髪を解き、それを右手で軽く梳きながら、桜が扉の向こうに消えていくのを見守った。
「全く何て言うか、疲れるヤツですねあいつは」
竹林はようやく立ち上がり、山栗に軽く会釈しながらその横を通り抜けようとする。
「でも気持ちがいい子でもある。竹林だってあの子、別に嫌いじゃないだろう」
「そりゃまあ……」
竹林は話しかけられ、立ち止まらざるを得ない。
「お前、何年目だ」
「六年目、ですね。最初の三年が営業、それから山栗さんの下について二年と一ヶ月です」
山栗は、立ち止まった竹林の目を見る。
「入社したての五月って憶えてるか?」
竹林は視線を逸らせ、LED照明の並ぶ天井をぼんやり眺めた。
「えーと、自分は営業職で入社しましたから、まだこの時期は研修中でした。四月いっぱいまでは座学と工場見学と……実務に繋がる講習は五月半ばの営業同行研修からでしたから……」
山栗は竹林の視線が逸らされたことを知ると、右手を伸ばし机上にあった鏡を取り上げた。
「じゃ、見守ってやれよ。お前と同行した先輩営業だって、今のお前と同じような気持ちだったんじゃないか?」
「……ですよね……」
髪の伸ばし具合をちらりと見ると、鏡をすばやく抽斗にしまい込む。
「それに私は、秋山を信じている。あいつは手で書くことを厭わない。だから、あいつはきっと、うまくいく」
竹林は目を伏せる。
「そういうもんですかね」
「私がそうだったから、そう信じたいだけさ。じゃな」
言うが早いか、グレーのパンツスーツの山栗は立ち止まる竹林の横をすり抜け、颯爽と扉の向こうに消えていった。
「それから竹林、抽斗は押し入れじゃないんだ。押し込めばいいってものじゃない」
すれ違いざま呟かれた言葉に、軽く血の気が引く竹林であった。
スレートブルーのウインドブラストベストと、漆黒のタンカー・デイパック。ベストから伸びた細い腕は、ボーダー柄のロングTシャツで覆われている。ジーンズはスキニーの黒、足許はジャックパーセルのモノクロームブラック。
揺れるポニーテールも、濡れ羽色の黒。
全体的に黒い。
ただ、服から露出している顔と指先は、はっとするほど白い。
その細い指先が、じっとりと汗ばむほどにデイパックのショルダーベルトを握りしめている。
もう、五分ほど眺めているだろうか。
深澤海の目は、ガラスケースの向こう側に釘づけになっていた。
「お探しの商品はございますか」
スーツ姿の女性店員が、壁際で立ち尽くす彼女に向かい声を掛けつつ歩み寄ってくる。
海は、背に冷たい汗が流れるのを感じた。
──焦るな、あせるな。あたしは見てるだけ。見てるだけなんだ。
「よろしければ、お出しいたしますけど」
黒髪ストレートで豊かな胸の店員が、紅いルージュで彩られた唇をゆっくりと開き、海を誘う。
──あたしの今日のターゲットはこれじゃない。これじゃないんだ。
ガラスカウンターから半歩、後退る。ポニーテールがゆっくりと左右に揺れる。それはまるで、彼女の心を現しているかのようだった。
揺れる。
揺れる。
振り子のように、海の心も揺れ動く。
「いえ、その……」
──見るだけならタダだ。別に取って食われるわけじゃない。
海は思い直す。堅く握っていたショルダーベルトから手を離し、ゆっくり、ゆっくりと指を伸ばす。
「えと……見るだけ……なんですけど……」
その指先は、ガラスケースの中にある万年筆を示している。
「はい、お待ちください」
店員は手早くポケットから鍵を取り出し、ガラスケースの錠を開けた。鍵をしまうと、代わりに取り出した白手袋を填め、その万年筆を取り出してみせる。
「どうぞ」
海は受け取れない。
指先は、それを指さしたまま固まってしまっている。
のどもからからだ。
半開きの口から、吐息と共にひとこと吐き出すのが精一杯だった。
「えと……触っても……いいんですか……」
「……どうぞ」
店員は同じ台詞を吐く。
憧れのペンが、ここにある。
──知ってる。
憧れのペンに触れることができる。
──知ってる。
触るだけならタダなのだ。見て、触って、おもむろに「今日は結構です。ありがとうございました」と告げて涼しい顔でフロアを去ればいいのだ。
──知ってる!
それでも、やっぱり海は動けない。
背だけでなく、額からも冷たい汗がだらだらと流れ出していた。
脳の一番奥にある芯みたいなところが痺れているのを、彼女は自覚し始めていた。
秋山桜はもうすぐ一九歳になる、社会人一年生だ。
この春に高校を卒業し、地元である平塚市の企業に就職したのだが、その神奈川営業所が新本社建て替えによって銀座本社内に統合されてしまったのだ。自転車で通えることが桜にとって重要だったのに、たった一ヶ月で彼女は一時間の電車通勤を強いられる生活を余儀なくされた。
桜の職業は、社内では営業業務と呼ばれている。その仕事内容は多岐にわたる。神奈川営業所にいた営業員たちの様々なサポートをするのが彼女の仕事だが、入社し配属されそろそろ一ヶ月が経過しようとしているにも関わらず、桜は仕事をまるっきり憶えられないでいた。
あるのは空回りな情熱と、元気な返事だけだ。
教育係である竹林稲穂が業を煮やし、山栗係長に泣きついたのが今から二週間前。竹林がOJT(現任訓練)を拝命して一週間と経っていない時期だった。
山栗は、桜にノートと筆記具を持ってくるように告げた。翌日、彼女は高校時代に使っていたクルトガと余っていた新品のキャンパスノートを会社に持参し、上長の指示を仰いだ。
要点は四つ。
ひとつ、毎朝山栗係長から告げられたことをメモすること。
ひとつ、竹林リーダーから注意されたことやアドバイスされたことをメモすること。
ひとつ、終業後に今日の振り返りとして、山栗係長にノートの内容とその結果を発表すること。
そして最後の一つは──今日の出来事、思いついたこと、なんでもいいのでノートに自分の言葉を残すこと。仕事中でもいいし、会社帰りでもいい。それは見せなくてもいい。
桜は山栗係長の言うことを忠実に守った。
それまでは、書くことといえばあくまで授業の一環であり、自らの人生では「学校生活が終わればほぼなくなるもの」程度に認識していた桜だった。だが、山栗係長に言われて毎日なにかしらノートに書きつけるようになってからは、少しずつではあるが書くことじたいが好きになっていた。
永いゴールデンウィークが終わろうとしている五月六日──世間は休日であるが、桜たちにとってその日は銀座本社ビルへの引っ越し作業の日だった。仮社屋にいた旧本社の社員とともに、神奈川営業所の営業員と営業業務も、この日から銀座本社勤務となる。
午前中は引っ越しの片づけで終わった。
午後は社屋内の説明、新しい出退勤システムの説明、そして本社営業部と神奈川営業所から来たメンバーとの打ち合わせで二時間を費やした。
打ち合わせが終わった後、席に戻った桜はパソコンの画面を覗き込み、「先輩、ウインドウズ10って判ります?」と効くばかりで、一向に仕事を始めようとはしなかった。
桜は何もしなかったのではない。何もできなかったのだ。
ゴールデンウィークの間に仕事の段取りをすっかり忘れてしまっていた。
竹林は激怒した。いくらなんでも忘れすぎである。桜にキャンパスノートを取り出させ、最初のページから改めて読ませ指示し追記させ、四月分の記憶を取り戻させようとした矢先に──クルトガの先端が折れたのだ。
「折れちゃいましたね」
ぺろりと舌を出す桜に、竹林の怒りは頂点に達した。
「折れちゃいましたじゃないだろー!? 他にペンの予備はないのかよ! 書けなくなったら今日の仕事は終わりなのか? 違うだろー!?」
「ないんですよ他のペン。あんまり文房具関心ないんで、わたし」
「せめてボールペンの一本や二本、別に持ってろよー! 社会人だろー!?」
頭頂部から湯気を上げた竹林の奮闘むなしく、桜の銀座就業初日はそこでタイムアップとなった。
竹林の怒りは理解できなかったが、桜自身も「しまったな」とは思っていた。
これでは、今日の分のノートを書くことができない。
自宅に帰れば、妹から筆記具の一本や二本、借りることはできるだろう。
ただ、少しずつではあるが書くことが好きになっていた桜にとって、それは納得のいかない解決方法でもある。
──借りたペンで満足できるかなあ。
口では「文房具に関心はない」と言うものの、彼女にとって筆記具はいつしか大切なものになっていたようだ。このノートを書き続けるなら、自分の気に入った一本を手許に置きたい。
──やっぱり、わたしのペンが欲しいよね。見てみて、よく判らなかったら、同じクルトガをもう一回買えばいいんだし。
そうぼんやりと思いつつ、桜は山栗に教えられた通りの道を辿り、いつしか銀座伊東屋の前に立っていた。
ガラスが大きい。でも、入り口はちいさい。
一階には筆記具が見当たらない。エスカレーターの脇に店内案内があるが、ぱっと見てよく判らない。仕方がないのでカウンターで訊いてみると、どうやら三階まで上がると筆記具があるようだ。
二階のレターセットのフロアを抜けて、もういちどエスカレーターに乗る。いきなり幅が狭い独り用になっているのに軽く驚きながらも、桜は三階に思いを馳せて顎をあげた。
三階は──桜が思い描いていた文房具売り場ではなかった。
木とガラスでできた什器がずらりと並ぶ、高級筆記具だけを扱ったフロアだったのだ。
少なくともここには、自分の財布に入っている小銭で買える筆記具はない──それは彼女にも、直感的に理解できた。
踵を返そうと思ったその瞬間──
「ぐはッ!」
桜は小柄な少女と真っ正面からぶつかり合った。
衝撃で肺から大量の呼気を奪われ視界を白くする桜と、そこから素早く離れていく電光石火の少女。
薄れゆく意識の中で、桜はその後ろ姿を可能な限り脳裏に焼きつけようと、言語化を試みる。
──ちいさくて黒ずくめの女の子。揺れるポニーテールが黒豹の尻尾みたいだ。
咄嗟に傍らのケースに手をつき転倒を逃れた桜は、軽い目眩を覚えつつも足許に力を込め脚を開いて踏ん張り、そして可能な限り大きく息を吸い込んでから背後を振り返った。
黒い弾丸は、すでに階段のある空間に姿を消していた。
今ならまだ追えるかもしれない。
桜には、ぶつかってきた少女を追いかける義理はない。確かに接触事故に対し謝罪の一つもないことは引っかかりを憶えたが、自身が怪我をしたわけでもなく、また彼女に謝罪をさせたいわけでもなかった。
ただ。
──もしかしてあの子、泣いてなかった?
顔面が濡れて光っていたことを、桜の頼りない受光素子がぼんやりとした画像データとして捕らえていた。
気になった。
あの子が泣いている理由が、少しだけ気になったのだ。
そしてもう一つ。
──このフロアに用はないよね、わたし。
だから、桜は少女を追って、階段のある方向へと駆け出していた。
銀座伊東屋は、上りはエスカレーターがあるが、下りはエレベーターか階段しかない。桜が階段前にやってきたとき、下方から階段を駆け下りる足音が鳴り響いていた。少女は間違いなく、階段を使って降りている。桜はまだ目眩から完全に回復してないせいか、おぼつかない足取りで階段を降りていく。駆け下りる、までの勢いは出せない。
一階まで降りて、息を切らした桜はいったん歩を休め、そのまま呼吸を整えつつゆっくりと歩き出す。入ってきた正面入り口とは異なる、裏通りに面した出口をくぐると、周囲をぐるりと見回した。
少女の姿は、ない。
無論、正面から出ていったのであれば、ここで姿が見えないのは道理であろう。桜は正面に戻ろうか逡巡したが、視界にもうひとつ伊東屋の看板があることに気づき、考えを改める。
そこにあったのは、赤いクリップではなく、黒い万年筆がトレードマークの、もうひとつの銀座伊東屋だ。
伊東屋が二軒あるとは、山栗係長からは聞いていない。ただ、桜は思う──もしかしたら、表の伊東屋はお金持ちのための店で、こっちの裏道のちいさな伊東屋が、我々庶民の店なのではないか?
だったらなぜ看板が高級筆記具の象徴である万年筆なのか判らないが、桜は本来の目的を思い出す。
──そうだ。わたし、自分のペンを買いに来たんじゃない。
少女を探すことはすっぱり諦め、桜はもう一軒の伊東屋に足を踏み入れた。
さきほどの表伊東屋に較べると、狭い。だが、そこには、桜でも買うことができそうな筆記具がずらりと揃えられていた。
「なんだぁ! こっちならいけるじゃん、わたし!」
つい声に出してしまい、はっとなって口を押さえ周囲を見渡す。店員以外で視界に入った客層はほとんどが外国人で、桜の言葉に驚き振り返るものは皆無だった。店員もプロなので、ちらりと視線を投げた以外のリアクションはない。
そんな中、真剣なまなざしで壁面の陳列棚を凝視している少女がいた。少女は背を向けているので、桜が顔を見ることはできない。
「あの……」
細くて白い指がボーダーの長袖からちらりと覗く。そのまま掌がひらひらと振られた。どうやら、レジの辺りにいる店員を呼びたいようだ。
桜にちらりと視線を投げた男性店員が少女に掌の動きに気づき、素早くレジを離れ歩み寄る。
「はい、何かお探しでしょうか」
「あの……以前ここにあった、ZOOM505は……」
ZOOM505は、トンボ鉛筆が三〇年以上にわたり販売を続けている、高級水性ボールペンだ。確かに、指先が差す棚の中には、ZOOM505は並んでいない。
「通常の商品でしたらこちらに……」
「いえ、定番のじゃなく、METAのほうが……」
店員が小首を傾げる。少女は慌てて言葉をつけ足す。
「あ、えーと、今年の新柄の、黒いモデルのほうで……」
店員はいったんレジに戻り、年嵩の店員に何かを訊いている。黒ずくめの少女は、ポニーテールを揺らしながらそれを半目で見守っている。
次第に額から汗が流れ出し、それが彼女の頬にも伝うようになっていた。
「お待たせ致しました。当店ではどうやら販売終了してしまったようでして……」
そこから先は上の空だった。店員が「別の店舗の在庫を確認しましょうか」と告げているのだが、少女の耳には届いていない。
「判りました。ありがとうございます」
そう機械的に告げ、少女は陳列棚から離れ、ふらふらと歩き始める。
「あの! すいません!」
桜は店員の手が空いたことを察知し、大きく手を振ってからおもむろにアネロを降ろし、中からクルトガを取りだした。
「文房具詳しくないんですけど、これの代わりになるペンが欲しいんですわたし!」
「シャープペンシルがよろしいですか」
店員は微笑みながら桜に近づいてくる。
「何でもいいんです! 店員さんのお薦めってありますか?」
「お薦め……ですか……」
店員は顎に手をやり、視線を斜め上に投げうーむと呟いた。あまりこういうやりとりをする客はいないのだろう。唐突なリクエストに、どう切り出していいものか考えあぐねている様子がありありと見て取れるリアクションだ。
「ごめん」
その店員と桜を押しのけるような格好で、少女が通路を抜けようとする。狭いので、どうしても身体が触れ合ってしまう。桜はその姿を見て、また大声を上げてしまった。
「あ! あなた、さっきわたしにぶつかってきた黒豹少女!」
「黒豹……?」
少女は額から流れる汗を取り出したハンカチで拭い、桜を見上げる。
桜の身長は一六二センチ。
対して、少女は一五六センチ。
視線は自然と上目遣いになる。
「さっきも泣いてたみたいに見えたけど、それって汗だったんだ! びっくりしちゃったよ、わたし!」
「……?」
少女には「さっきも」の意味が判らない。
ハンカチをしまい、少女は視線を手にしたクルトガに向けた。
「ずいぶん筆圧が強いな」
「あれ? わかる? そうみたいなの、高校の頃はあんまり気にしてなかったんだけど、さきっぽが折れ曲がるくらいには強いみたいね!」
少女はごく自然な動きで右手を差し伸べた。桜はまるで吸い込まれるように、その手にクルトガを渡していた。
「普段から芯は長く出すのか? 書いてるとき、芯そのものが折れる?」
「いやあー、そんなちゃんとは憶えてないけど、がちゃがちゃ出す癖はないと思うよ! あと、確かに芯が砕けることはあった! 試験の時とか、最近よく言われる先輩からすぐメモ取れ! とか急かされるとき!」
少女は壊れたクルトガを眺め、しげしげと眺めている。
「で、これしかペン持ってないから、その先輩からボールペンのひとつも持ってないのか莫迦! それでよく仕事できるな! ってよく叱られるのよね、わたし!」
少女が目を上げた。口が菱形になっている。どうやら桜の外観から、彼女を高校生あたりだと踏んでいたらしい。
「え、社会人……」
少女は「それで?」と続けそうになってつい口を押さえてしまう。
「うん! この春に就職したばっかり! 高校でもノートってシャーペンでしか取ってなかったし、色つけたりするセンスが皆無で、他のペンとかぜんっぜん興味なかったしね!」
桜はそんな少女のリアクションの意味に気づかず、どんどん自分語りをつなげていく。
「でもね、いまの会社に就職って、わたしホント仕事できなくて駄目なんだけど、係長にノート書け、仕事のこと以外でもいろいろ書けて言われていま続けてるんだけど、書くのがだんだん楽しくなってきたのね! そこで今日、シャーペンが壊れちゃって、今日書くためのペンがなくなっちゃってね! 電車で一時間かけて帰るから、今日ここでどうしてもペンが欲しいんだけど、どれにしたらいいかぜんぜん判んなくって!」
「……同じものじゃなくてもいいのか?」
桜は少女に訊かれ、ぶんぶんと首を縦に振ってみせた。
「ぜーんぜん違うものでもいいよ! シャーペンじゃなくてもいい! あ、でも、書き間違うことがたくさんあるから、シャーペンのほうがいいかなあ……」
「いくらまで出せる?」
少女に言われるがままに、桜はアネロから長財布を取り出して残額を確認する。
「うんとね、とりあえず今出せるのは、一〇〇〇円まで……かなあ」
「シャープペンシルだったら、あなたの筆圧を考えたらこれ」
少女がすっと手を伸ばす。その先には、シャープペンシルの棚がある。吊り下げられていたブリスターパックのひとつを取り、桜の前にかざした。
「ゼブラのデルガード。三ノック以内だったら、どんな筆圧をかけても絶対に折れないシャープペンシル」
「ひょえー! それはすごい! わたしみたいに筆圧高い系女子にうってつけじゃないですか!」
桜は手渡されたパッケージをしげしげと見つめ、歓喜の声を上げる。
「あ、でも、社会人なのか」
少女は言うが早いか、シャープペンシルの棚を離れ、別の棚からまた違う製品を持ってくる。
「ノートに書くときはシャープペンシルがメインかもだけど、それ以外にペン使うことだってあるか。だったら、赤黒二色のボールペンがいっしょになったこっちのほうが社会人向きだな」
「おおー! 二色ボールペンってやつかー! それもちょっと高級なバージョンで!」
桜はそのパッケージも受け取り、裏面の説明を読みふける。
「え! これもデルガードなの? 折れないシャーペン、中に入ってんの?」
目を丸くした桜は、その視線をパッケージの説明書きから少女に投げる。少女はその眼圧にやや気圧されながらも、細い指を立て講釈を垂れる。
「デルガード+2S。内蔵しているシャープユニットは超小型デルガード。通常のデルガードと同じように芯が折れない機構が、その先端の小さなユニットに詰め込まれてる。ボールペンはゼブラ独自のエマルジョンインク。エマルジョンは正確に言えば油性じゃなくて、油性インク七割に水性インク三割を配合した油中水滴型インク。こうして一本にまとまってれば、持ち歩きも都合いいし、他のペンを探す手間も省ける」
「すごい! わたしがよくものをなくすことまでお見通しとは!」
桜は凄い勢いで、少女の背中をばんばんと叩く。少女は小さく「うう」と息を吐いた。
眼圧強いままの目を、桜は隣で圧倒されている店員に向けた。
「これください!」
「あ、はい……ではレジまでどうぞ」
レジ前に立ち、会計に入ろうとした桜が振り向くと、黒衣の少女はすでに店内から姿を消していた。
「え? ちょっと、なんでいないのあの子?」
「一二〇〇円に消費税で、一二九六円でございます」
「超えてんじゃん!」
桜は支払いを済ませ、慌てて店を飛び出す。
黒い少女はアニエスベーの角を曲がり、中央通りに向かって歩いて行く最中だった。桜は彼女に追いつくべく駆け出した。
中央通りに出た桜は周囲を見渡す。そして横断歩道を渡った向かい側──カルティエの横を歩く少女を発見し、大声で叫んだ。
「ちょっと! 予算一〇〇〇円って言ったよね、わたし!」
まさかの大声に、少女は立ち止まる。
「ねえ! 名前、教えてよ! わたし、秋山桜!」
「……一面識もないのに、今どきプライベートをこんな往来で教える莫迦がどこにいる」
少女は振り返り、手だけ振ってそれに応えた。
「また! どこかで! 会おうねー!」
その声を背後で聴きながら、少女は早足で歩き出す。
──つまらないお節介を焼いてしまった。
深澤海はZOOM505METAを求め、銀座ロフトへと向かった。